言語復興-大阪弁 : カナリア機関誌巻頭言より

ことばの自由委員会です!    

ぼくらは「言語権」というものについて考え、さまざまな方言・言語の「言語復興」を企てています。

会員は皆、一般市民です、

政治的な有力者はもちろん、言語学の研究者や専門家はひとりもいません。

でも、ぼくらは声を上げます。

現在、地球人の運命に危機が迫っていないでしょうか?

いまや、地球人のひとりひとりが自力で立ち上がる、そういう最終的な「民主主義」の時代に来てないでしょうか。


現代の地球人の危機は、気候危機をはじめ、経済危機・政治危機・コロナなどの疫病による危機など多数からなり、「言語危機」もそのひとつです。

しかも、それぞれの危機は、由来は異なれど現代において「資本主義」の影響下に、大きく一体化しようとしている。

たとえば言語問題でもよく聞く、スカンジナビア半島北部の先住民族サーミは、気候危機によって北極圏でのトナカイ遊牧が困難になり、南下せざるを得ない。そこでストックホルムなどの都会に来れば、差別・就職問題・教育問題などにぶつかり、また他のアジア・ヨーロッパからの移民との交流問題もあるであろう。

これらは皆、現代では「グローバル資本主義」によって繋がっています。


「言語・方言危機」は深刻です。

地球の現存言語6000のうち、半分から8割が今世紀中に消滅する危機に立たされています。

方言を入れたらもっと多くなるでしょう。

いま日本ではアイヌ民族や琉球民族の言語危機がやや知られて来ていますが、

地球には、これと同じ問題が数千数万も充満している。


この未曽有の「星難」に、立ち上がり、声を上げる。「言語権」を主張する。

言語権とは、「ことばを自由にしゃべる権利」です。

現代人には、この当然の権利が損なわれています。

方言・言語、つまり「ことば」とは、人間の「からだ」、身体です。

ことばというからだを傷つけられたらこころも傷つきます。

たとえば、着ている服をカッターで切られたら、誰しもおぞ気立つでしょう。

同じように、しゃべることばを侮辱されたらこころの痛みは相当やし、

さまざまな理由で「自由にしゃべれない」場合、こころは重苦しさを感じます。


こういう考えで集まったぼくたちですが、メンバーは多種多様です。

大阪で結成したのでネイティブ話者の大阪人が多いですが、

中国地方人もいるし、

大阪周辺近畿人で、大阪語に好意をもつひともいて、

大阪ネイティブやけど大阪語を話さない人もいます。


ぼく個人、臨夏は大阪に誇りと愛着を持つ大阪人なので、

以下取り分け大阪論を中心に考えていきますわ。


いま、大阪弁=大阪語は危機を迎えています。

若者やこどもに、大阪語が継承しきれていない。

ぼくは1968年生まれの今年53歳ですが、

すでにぼくの大阪語が祖父母から見たら、いや父母から見ても「おかしい」。

今の子はもっとです。

しかもそれでよいと自分で思い、大阪語への愛着が希薄になり、市民に根強くあった「大阪へのこだわり」や「東京への敵愾心」もまばらになってる。

あるいはそういう気持ちは人の自由で、押しつけるのはおかしい、と言うかもしれない。


そう、自由。

文化や言葉への気持ちは自由なんです。

でも、主観では自由のつもりの自分の気持ちが、じつは背後から動かされてはいないか?

「うち、しにたいねん」という人に「ほな、自由にしにたい気持ちを尊重します」とは言わない。

その「気持ち」をもった背景を分析すべきでしょう。


大阪語は一方で、電波にも乗るし、京阪神都市圏人口は1700万人、近畿人口は2000万人、大方言・大言語です。

しかし、一部言語学者はその大阪語を「危機言語」やと指摘し始めています。

実際、ぼくのような「意識的な」話者は、今の状態が苦痛です。

それに対し、「ことばは世につれるもの、これでええんや」とぼくより年配のインテリまでもがいう。

しかし、「戦争やコロナは世につれるものやからこれでええ」のでしょうか?

分析していきましょう。

以下、「自由にことばをしゃべる」ことについてぼく個人の意見を書き記します。



カナリア巻頭言本文「ことばの自由論」


1,「ことばの自由」とは

ことばは身体。

これが基本です。ことばは「自分の外側にある」もの、「たんに使用している」ものではありません。活きている、身体なのです。

普段意識していなくてもそうなのです。

健康な人は「からだの自由」を意識したり、それをありがたいとは思っていませんが、いざそのからだが損なわれれば苦痛を感じます。

同じように、今現在持っていることばや、文化一般は、他から侵犯されれば、辛いのです。

この苦痛が基礎概念で、これを「文化苦痛」と名付けます。

ぼくが感じるのは、大阪語が東京語(標準語)に取って代わられる、だんだん大阪語が東京化していくことへの恐怖と苦痛です。

単純化して言えば、ただに大阪語が変化する、むかしと変わることが不満なわけではない。


ぼくの考える、これに似た、もっと大規模な歴史的事例を挙げれば、日本帝国時代に植民地朝鮮で行われた朝鮮文化・朝鮮語への政策的抑圧、代表的な事例では創氏改名などがあります。

この類の被害の規模は大小さまざまです。歴史的経緯があり、日常的にすぐに気付かされ、問題になりやすい場合もあります―例えば植民地朝鮮―が、状況が日常に覆われている場合は、―例えば現代大阪の場合など―言われて自覚しなければそもそも感じない。

この種のこと―文化・ことばへの、「暴力、侵略」というものがあるんですよ。これを、単なる「時代による変化」と見てはいけない。

言い方を変えれば、起っている変化が、どういう理由によるのかわからなければ感情や苦痛も感じようがないのです。これは、文化に対する暴力が、普通の腕力による暴力と違っている点です。

ですから、なにも苦痛を感じていなくても、ことばの変化の背景の正確な状況を知ること、その変化と自分との関係を知ることによって、理論上「正しく苦痛を感じる」ことができるはずです。

ここで、「わたしの苦痛の感じ方について『正しさ』を押し付けられたくはない」という意見も出てくるでしょう。それはもっともです。ですから、ことばの状況と自分との関係の認識は、じっくりとなされるべきですし、「イデオロギー優先」にならないよう気を付けなければならない。


ことばの変化については、これとは別種の感情もあります。

世の中に、「昔と今とで文化やことばが変わった」と嘆くひとが一定いますね。「日本語の乱れ」に対して不満を持ったりする、あの現象です。

しかし、これは当面苦痛を感じる人がいるのは事実にしても、創氏改名や大阪語の衰退とはまた別問題でしょう。ことばの変化は避けられないし、ことばの変化自体は悪いことではないからです。これに対し、暴力・侵略は避けられるし、それ自体が悪いはずです。

これについて、詳しく言います。


2,ことばに対する「政治的暴力」と「社会的暴力」

‐1,政治的暴力

戦前、「方言札」というものがありました。沖縄史などにおいていわれますが、東北などにもあったようです。当時日本国内では標準語が強制され(日本帝国の植民地では日本語が)、教室で方言をしゃべると制裁を受け、首から罰を表す札を下げられたそうです。精神的・身体的な残酷刑と言えるでしょう。これをぼくは「政治的抑圧・暴力」と位置付けます。国家の政策による、直接の抑圧です。


 しかし、抑圧・暴力はこれにとどまりません。ある意味で「まし」な抑圧、しかし全体的な物理的破壊力は戦前期を上回る抑圧、これが現代日本人が直面している抑圧、ぼくの言う「社会的抑圧・暴力」です。戦後では、東北人や大阪人が方言をしゃべることは全く「自由」に任されている、と主張されています。たしかに方言札のような政治的・直接的な弾圧はありませんが、はたして抑圧はないのでしょうか?やはり、標準語は、しゃべらなければやっていけないのが現実です。ぼくの事例でいえば、ぼくは台湾の日本人経営の日本語学校で講師をしていたのですが、日本語教育で東京語を教えるのはまずありますが、講師控室で大阪語でしゃべっていたら、「標準語を使ってください」と強制されました。

しかも、方言は一般に「かっこ悪く」感じる、というのがあります。これは資本主義や国家主義による「ヘイト」の結果です。都会に出ていくと、方言話者は都会人の前、方言は抑圧されます。これは「物理的強制力」で、外側から来るものです。けっして当人の道徳的責任ではない。「自分の文化に誇りを持て!」などとセッキョウして済む態のものではない。じっさい、はばかりながら言わせていただきますが、東北の方は東京に行って、かつては「ズウズウ弁」とも軽侮された東北弁を自由に使うのでしょうか?おそらく、差別されるし嫌ではないか。そういうこともあってか、東北全土で東京語教育は盛んになり、いまでは東北語は子や孫にただしく継承されていない。


このような精神的強制の他にも、社会的強制・抑圧はなんぼでもあります。いまわたしは「なんぼでも」と敢て表記しましたが、この「方言による主張」は辛いもんがある。書きにくいです。書くのが、自動的に「自主的に」はばかられます。この「自主」が問題で、一見自分の自主的な判断に見えて、その実他人の判断です。ミシェル・フーコーは、この自分の身体に入り込んで自分を内側からうごかす力・権力のことを「生権力」と呼びました。

こんな個人の文章は書いても抑圧が少ないが、公的な、役所や学校の文書にはまず「書けない(書いてはいけない)」し、よし書けても皆事実上「書かない」でしょう。わたしの台湾日本語学校の体験もそれやし、花の都、京都の地下鉄のアナウンスを京都アクセントでやって同僚たちに取り押さえられた経験もあります。ほんま、抵抗するもんやないわと学習しました。ぼくなどは東京弁をしゃべらんように気を付けていますが、どないしても混じるし、人によっては同じ大阪人でも東京弁に抵抗ない人もいてるし、ある友人は「ぼくは自分の意志で標準語を使うんや」と言うていました。「抑圧の内面化」です。ミシェル・フーコーの「生権力」ですが、この社会的暴力は、陰に陽に、内から外からきます。

これが現実の「力」であり、なんぼ「自主的に勝手に規制してるんでしょ?」と言い訳したところで、根は外からきている暴力です。しかも現代、資本主義と国家主義の強化により、その暴力の実質的な破壊力は増大しています。産まれたときから、テレビによって東京語による魅力的な番組を放送しているため、方言の破壊は急速に進んでいます。「北風と太陽」であり、方言札による北風的制裁より、テレビアニメによる太陽的東京語化のほうが、圧倒的に破壊力があります。加えて、地方には資本や国家の恩恵が少ないため、地方人はこれも実質上都会に行かざるを得ません。就職・進学、あるいは娯楽のためにも。会社や学校は都会に集中しているし、娯楽施設も都会に多い(地方にあるハウステンボスなどは苦戦している)。東京ディズニーランドなども軽視してはだめで、あれを目当てに東京に行き、楽しみながら影響・洗脳されてしまうのです。ついでに、アメリカ化の洗礼も受けます。うきうきと地方人を東京に吸い寄せる現象は、あれは間接的な「拉致」ではないか?と思うのですが、言い過ぎでしょうか。


 結果、東北などではことば・文化を支える母体である人口自体が減っています。これは大阪に行く人もあるでしょうが(大阪も被害を受けてばかりではない。加害者でもある)、都会に人が流れ、そこで結婚し、居着き、子供は東京語など都会の言葉をしゃべる。地域社会の崩壊現象が起きています。農村は過疎化し、後継の若者が育たず、消滅した農山村も数多い。少数方言は、記録にも残らないままに、現在進行形で消滅していっています。人口がたとえ残っても、方言話者はじいさんばあさんばかりになり、若者や子供は変形した方言や、まるまるの東京語をしゃべるようになっていってる。仙台市のような、100万の人口を数える地方中枢都市ですら、そうやと聞きます。これは政治的・社会的なヘイトの結果であり、テロとさえ言えます。はっきり言いますが、これは「東京権力による地域社会への侵略」です。大阪のような、人口(京阪神で)1700万人を数え、長く歴史と文化をリードしてきた社会でさえそうで、言語学者はついに大阪弁を「危機言語」と認識し始めました。わたしの若い大阪在住の親族も、いまや東京弁の話者です。



2,「時代の流れ」か「侵略」か

 こういう傾向、ことば・文化・生活の「変化」に対し、「時代の流れや、仕方ないわ」と言うたり、「過去から歴史はこれを繰り返してきた」「悲しいが、ながすしかない」「気になる人だけ、抵抗したらええし、それは止めへん。あかんいうてないで、自分の考えを周りに広めたらええねんで」などと宣う人々がいます。大阪の大人たち、知識人たちも、おおむねこうです。

 まず、「変化」と「暴力・侵略」をわけるべきでしょう。なるほど、「社会は時代によって変化」しますし、「過去からずっと変化し続けてきた」でしょう。

 しかし、戦争やコロナのような疫病も社会の変化であり、昔からあり続けてきたものです。果たしてそのまま放置していてよいものでしょうか?

 翻って、方言や言語の衰退は、戦争やコロナのようなもの、侵略や外的暴力ではないのでしょうか。上記の、東京などの都会が地方の社会に与える破壊は、戦争などと同じような侵略であるとぼくは考えます。もっと適切に言えば、これは「植民地支配」と同じものでしょう。首都は、都会は、地域社会を植民地化している。資本による支配、国家による支配がその正体であり、「搾取」であるともいえます。


 なるほど、ことば・文化・生活には、「単なる変化」もありますよね。暮らしは過去から未来へと変化していきますし、ことばもそれに連れて変わっていきます。なにより、東京やアメリカなど、上の考察では侵略する側であったはずの地域社会も変化しています。実際、「大阪語の衰退」について嘆くと、東京の人は「江戸弁だって同じサ」と言うのですよ。


これは少し大事な論点のようです。ぼくは基本的に「自然な変化」と「暴力・侵略」とを分け、前者は基本構わないが、後者は食い止めるべき、と考えています。これは基本姿勢です。しかし、お年寄りが変化を嘆くように、「自然な変化」自体が、人に苦痛を与えるものなのかもしれません。それならばそれをも食い止めるべきですが、変化自体は否定がしにくいと思います。電気文明や民主化のように、普遍的に人類に恩恵を与える変化もあり、これも「ランプの方がええわ」と言う方もいてはりましょうが、そこは博物館施設の充実(現代以降、バーチャルリアリティーの進展もあるかもしれない。架空の近世あるいは近代の京都市を一日観光したり、なども決して夢物語ではなくなってきている)などで対処するしかないと思います。単なるニュートラル(中立的)な変化も同じです。


上の、東京人の主張、江戸語の衰退についてはどうか。これも、その生活の変化・方言の推移が「外的抑圧による変化」でないなら、食い止め方も上記のようになってくるでしょう。一方、東北や大阪の変化の中にも、そういう側面はあるでしょうね。ただ、資本による支配は、「資本主義(帝国主義)本国」つまり東京・アメリカですが、とりわけその「庶民階級」に対しても抑圧としてふるまいます。変化をよく分析して、ただの変化と抑圧を区別する学問的努力が必要です。たとえば、東京下町のことばや街並みなどは、資本の「ジェントリフィケーション(紳士的環境化)」に直面し、おかしなオシャレな開発の犠牲になります。東京大空襲では、支配者がおこした未曽有の災厄で下町が集中的な打撃を受け、家屋や生活文化、方言話者が損害を受けました。これは十分暴力であり、侵略や植民地支配、搾取と同じと言えます。


山の手、というのですか支配階級も無傷ではないかも知れません。資本主義は、資本家に恩恵を与えるというが、正確には利益は「資本」「資本システム」に対して与えられるので、人間としての資本家さんは犠牲者でもある。大企業のCEOは過度に働き、批判も受けて疲弊している。これは政権の政治家も同じかもしれない。彼らに対する共感が欠けても、彼らをかたくなにするだけで、同じ資本システムに抑圧を受けている人間たちに分断を生んでしまう。ただ、想像が及びきれないながら、下町の民衆も、山の手の民衆も、それぞれ言いたいこと、生活文化やことばの変化にまつわる具体的な話、多々あるでしょう。実際SNSを通じて聞いてみるだけで、東京にもアメリカにも、様々な苦しい抑圧の現実がほの見えてきます。


 ここで大事なのは、東京民衆や「世界の東京」といえるアメリカ合衆国民衆も(そして東京は「日本のアメリカ」)、地方民衆の敵ではないということです。たしかにおおむね、傾向として彼ら支配者よりの人々は恵まれてはいる。都会と地方、あるいはマジョリティとマイノリティはあくまで「非対称」であり、同一には扱えないにしても、大きく「同一の傾向」もある。それは「資本による商品化」にさらされている、という点です。「帝国主義による政治的植民地化」の時代と違い、「グローバル資本主義による社会的植民地化」のこんにち、諸国家・諸社会の上に君臨する資本に搾取・商品化されている人々―「地球人」とでも呼ぶべき人々―つまりわれわれは、地域差や個人差はあれど、皆等しく「商品」とされて、抑圧を等しく受け始めています。「BLM(ブラック・ライヴス・マター、黒人のいのちが大事)」の声があがりましたが、アメリカ白人や菅さん安倍さんも含んだ地球人全体が「ブラック化」していく途中に、現代世界はある。ブラックは単に黒人民衆と言う意味から、資本による抑圧を受ける全ての人間・地球人・商品人間の意味へと解釈のし直しも可能でしょうか。


問題もあります。「BLM」に対し、「ALM オール・ライヴス・マター:全ての人のいのちが大事」の声が上がったときに、黒人からの非難がありました。「まずは、黒人を見ろ」と言う。これは、実は社会は非対称であり、黒人と白人は対等ではないのに、救済措置だけ対等にしたらおかしい、ということでしょう。身体障害者と健常者を対等にしたら、車椅子は有料になります。やはり障害者を「優遇」し、車椅子は無償で提供すべきです(しかし本当は無償でもないそうで、驚きです)。


ここを、マルコムXは「ブラックコーヒーにミルクを入れたら薄まるから嫌」と言うた。正直、ぼくも世界的には日本本国人やから「ホワイト」なんですが、大阪方言話者としては「ブラック」の側面もある。東京語は聞きたくないし、東京風に薄まった大阪語も聞きとうない。そやからぼくはいまはテレビは見ていません。絶対東京語を聴いてまうからです。ゆっくり、安心してちゃんとした大阪語「だけ」を聴きたい。


「ブラックコーヒー」を味わいたい。


台湾ではケーブルテレビが普及していて、一日中原住民語や少数方言客家語で流すチャンネルがあります。大阪でも、大阪チャンネルが必要ですわ!


 「ALM(すべての人が大事)」問題に戻ります。全ての人は、ただうすっぺらく「人間や」というのではなく、いまやグローバル資本の下の「ブラック」あるいは「植民地人」あるいは「商品」なのです。ただ、商品化の程度には差があるし、商品=ブラック間相互の社会関係が複雑で、政治的対立関係もある。いわゆる「南南問題」と同じです。つまり、南方の、インドデカン高原のサータヴァーハナ朝のような地域大国(北方のガンジス流域のアーリア系白人王朝に圧迫を受けつつ繁栄した、南方ドラヴィダ系黒人王朝)が、地域のより小さな王国や民族を侵略している。それよりはインドネシアによる東チモールへの抑圧の方がわかりやすいか。またはアメリカ南部の下層階級の白人が黒人を差別する、大阪の企業で大阪人上司が朝鮮人社員を搾取し、かつ差別する。あるいは現代グローバル資本主義社会において観光問題は重大ですが、大阪の観光客が北海道に観光に出かけ、商品化されたアイヌや北海道文化を消費する。この観光による商品化被害は京都の街も、なんなら東京の街も(浅草かて、渋谷かて)受けていますが、ここで「加害側」に位置する観光客大衆も、日常の労働現場や学校で商品化されて疲弊している。これが、「南南問題」ですわ。そやから、単純に「全方面対称化」(「どっちもどっち」、あるいは「疲れているのは皆同じ」「人類は皆大変」論)はできない。「ブラックの中で、だれがより大変か」、「ブラックの間に、いまどういう利害関係・支配関係があるのか」、「次どうするのか?」という、個々のケースに即した具体的な実践論が必要なんや。ぼくも、アイヌ民族に対し、「大阪とおんなじですよう!連帯しましょう!」と持ち掛けて、つまり「ALM」と言うて、肘鉄をくろた経験があります。これはぼくが悪かった。やはり「ブラック」間、商品相互間、南南間に、受ける抑圧(商品化)の程度や立ち位置の差がある。アイヌの受ける抑圧は大阪のそれよりずっと重い。更に、社会関係上大阪人は今現在アイヌを、東京と一緒になって抑圧している側である。なんなら、大阪人もアイヌを差別している。ぼくにアイヌの体験している現実が見えていなかった。ぼくも、東京人に「東京と大阪は同じだよ!」と言われたらむかつくしな(苦笑。


 ただ、敢て言わせてください。「潜在的には」東京も大阪もアイヌも、アメリカ(黒人・ヒスパニック・白人・東洋人)も、同じ「ブラック」になるように進んで来ているのが、グローバル資本主義下の地球の情勢であると思う。ここに、「地球人の団結」、疎外(Alienation→エイリアン)の侵略に晒される植民地地球人の大団結も、ほのかに見えてきたかもしれない。(Alien-nationなら「異星人の国」、疎外のふるさとやな(笑))


つまり、旧来の共産主義の、「労働者が資本家を打倒する(「万国の労働者よ団結せよ」)」でない、「地球人(商品・ブラック・マルチチュード)が資本を打倒する」図式です。


3,「伝統主義」・「民族主義」を乗り越える。共同体批判

まだ大事な視点があります。

大阪人の「共同体」の問題です。

ぼくの主張は、現段階では明確に「大阪語復興」です。その論拠は「暴力反対」です。しかし、この大阪語復興でええのか?

大阪語の母体の、大阪社会・大阪共同体も暴力の源ではないのか。

これは、ひとつには大阪社会が資本勢力であり、近畿周辺や大阪内部の非主流派やアイヌに暴力をふるっているという、極めて重要な「加害者性」の問題でもあります。

更に、ここでぼくが取り上げるのは、大阪共同体自体の問題、つまり大阪人の他者への加害でなく、大阪人の大阪人への加害の問題です。

しかも、資本の暴力が自分に向かう、という資本の自己疎外の話とも違います。


つまり、大阪共同体は大阪人に「大阪語を強制してええのか」?

原則、「ことばは自由」です。そして自由やからこそ、暴力には反対です。東京語や英語は否定されるべき、と思います。

しかし、二点問題がある。

ひとつはやはり、資本にも絡むことで、「大阪資本の大阪人への暴力」

もうひとつは「大阪共同体が大阪人の自由を脅かす暴力」です。


‐1、大阪資本批判

東京体制は外部の人間に、標準語(その実東京語)を強制すべきでない(間接的にも)ことは述べた。では、東京人は東京都内において、自由に東京語で会話してよいのか?

これにも疑問がある。いま、東京都市圏つまり首都圏人口は4000万人を数えるに至っている。このままでは、東京語は日本語を飲み込んでしまわへんか?もちろん、言語は話者の母数が多ければ多いほど、有利になる、つまり暴力的になってくる傾向がある。端的に言うて「不公平」「不平等」である。

別の観点から見れば、東京人が増加傾向にある、つまり東北や東海の人間を飲み込んでいくということは、いままでにも飲み込んできたわけや。いまある東京人にかて、潜在的な東北人、ありていに言えば「移民」してきた東北人の子孫がおる。筆者の大阪の産の友人たちも、多くは東京に移民し、当地で家庭をなした。そのこどもたちは東京意識・アイデンティティーを持ち、東京経済に寄与し、東京語をしゃべっている。


この論点はそのまま大阪に持ってきてもよい。京阪神都市圏人口は1700万人を数える。近隣諸都市・農村を飲み込んできたのや。「大阪の加害性」の問題である。

そもそも大阪人には、被害者意識が強い。「東京にやられた」と思ている。筆者が安易にアイヌに呼びかけ、拒否されたのがええ実例や。ほかにも、九州の友人に大阪から見た東京への不満を言うたことがある。友人、大阪の味方してくれるか思たら冷淡で、「東京と大阪の争いは帝国主義同士の争いやから知らん」という。そう、「帝国」とは言いえて妙で、世界で言うたら東京=アメリカで、大阪=フランスではないであろうか?あの帝国主義で高慢なフランス人である。インドシナ・ベトナム支配と抑圧戦争は仏米両国の協調下に行われた。大阪かて、こうなんや。


これは、東京・大阪など大都市の「力」の源、「資本」の問題であろう。「力」は資本に限るまい(国家もある。伝統的な旧勢力もある)が、近代も押し迫り、ますます社会諸力は資本のもとに結集、一元化しつつある。


‐2、大阪共同体批判

一口で言えば、「大阪はムラ社会の掟みたいなん言うな」と言うことや。

大阪でもどこでも、人間は自由にことばを使たらええ。しかし、自由言うても暴力を振るう自由(東京語をしゃべる)はないで、いうことを述べた。

では、東京語でも英語でもないことばを使う自由はないのか?という問題が出てくる。

「ことばは自由」やから、大阪語でないことばを使てもよい。地方語、自分独自の表現、なんなら「力」的に許される範囲での東京語。


筆者の友人に横浜ルーツの人がおる。彼は大阪において気の毒であった。やはり、関東語を話したら、大阪社会ではいじめに遭うし、大人社会でも浮いてしまう。ここで、彼の横浜語の「暴力性」を問うのは、やはり彼「個人」にとって酷やと思う。個人には個人の事情があろうし、個人的な横浜や家族や友人への思い出や愛情もあろう。

ぼくかて、北海道に引っ越すことを考えたこともあるが、あまり北海道語を話す気にはなれなんだ。北海道語は東京語に似ているし、馴染みがない。なにより、ぼく個人には自分の人生における大阪への愛着が強いし、一定大阪社会への義務・義理も残っていよう。

別の友人は、大阪ネイティブであるが、親御さんは関東人、当人は地元の学校に通わないでフリースクールに行っていたとかで、結果大阪語を継承していない。これも、個人の歴史が大いに関与する。本当は、彼をも含めて「大阪人」なのである。この場合、大阪意識はべつに持たなくていいので、「大阪住人」とでもした方がより適切か。

さらに、山口県出身の友人は、あまり明確な山口語を話さないが、彼女はそもそも「地域に愛着をもたない」そうや。筆者の理論では、「愛着」は「言語正義」にあまり重要な役割を果たさず、筆者は「暴力を消去していく」論理で「言語における正義とは何か」を考える。しかしそれにしても郷土愛のあるなしでは、言語の在り方も大きく変わってくるのではないか。


筆者の言語正義理論は、「帝国主義が~」と多分に大上段でマクロな視点、つまり大雑把な議論である。今後は社会に実際に生活する、生活者個々人目線の、ミクロ視点が必要や。これは、思惟をひねくり回してもだめで、友人やインフォーマントへの地道なインタビュー、それも友情がないといかんと思うが、人間的つまり社会的な交流の上に立った考察が必要になる。


まとめると、「共同体による暴力」をも見なければならない。

構造主義では「郷土の力」というようやが、帝国主義が「外向きの暴力」とすれば、共同体的なムラ社会の抑圧は、「内向きの暴力」と言えよう。旧共産圏など、国家(ムラ社会!)が地域を「解放」したところでは、解放側の民族の、しかもその首都の言語一色に塗り固められてしまうようや。これは「スターリン主義」の一形態としても重要や。これは国家主義の力でもあるので、旧共産主義諸国にかかわらず、ファシズム国家の言語政策や自由主義圏でもフランス共和国の少数民族・方言政策などに強く現れている。


そもそも筆者は「共同体」をそんなに美しいとは思わない。人々が寄り添うのはよいが、歴史的な、近代以前の社会の根幹をなした共同体には、自立していない人々の相互依存・その結果としての権力の要請、そして屈服、があると思う。もとめるべきは、自立した諸個人の自由な意思による、自由な連帯や。司馬遷は史記で「鳥集雲散」と遊牧民・匈奴の運動形態を描写しているが、集まるべき時に鳥のように団結して事に当たり、済めば雲のように散り(個人性を守る)という。集まって、いつまでもダマになって居着き、権力性を帯びていったのが、定住民的なムラ社会性を帯びた、旧共産国やファシズム体制の「党国体制」であろう。


その意味では、筆者は方言自体に積極的な価値を、実は見出していない。

筆者の怒りは、侵略に対するもので、先ほどもいったが、正義=あるべき姿を、「暴力はいかん」という「消去法」で求めたものである。

つまり、「大阪は素晴らしい」「伝統を守ろう」「大阪人は民族であり、民族的主体を確立しよう」とは、言うていない。

むしろ、伝統や民族と言う、内向きの、保守には反対や。むしろ、ことばがどんどん変化あるいは発展していくことに賛成や。

であるから、言語復興運動も、大きく「民族主体主義」から転換していくべき、とぼくは思う。


そもそも、少数言語が、方言が、乱立したら不便ではないか?だれが辞書を作るのか(これ自体は「文化の多様化・豊富化」でいいことかもしれない。小説や戯曲作品の分量が増えることは良い事なのと同じである。しかし、手放しで少数言語や方言を無際限に肯定するのは無責任と考える)。ことばが通じないと社会的交流が成り立たず、ゆえに近代に標準語や国際標準語の成立があったわけで、これはいまも続いている。そやから、その「統一」自体はむしろええことであろう。しかしその「統一」に伴う矛盾、その暴力性をぼくは指摘した。


では、エスペラント語か?

いや、待たれるのはAIによる便利な通訳であろう。そもそも、近代以降の社会は「高度な交通(交流)性」が、拠って立つ基盤である。交通・交流の高速化がなければ、待っているのは強力なムラ社会、ディストピアの全体主義である。でなければ、文明史を一からやり直し、永遠にぐるぐる回ししつづけなければならない。


人類始まって以来、抑圧や侵略のない理想状態の下に成立したであろう、推測によって算定した言語、筆者はこれを「正義語」と呼ぶ。この、これから先の社会への言語正義だけでなく、これまでの正義、つまりこれこれの侵略があったから欠損を取り戻そう、と考えて作られる「理想の言語」は可能か?

そもそも人類は、完全な理想の実現が可能かどうか、は不問にしつつ、より良い状態をもとめて進むものや。

離婚の慰謝料にしてからが、理想の額面は決めようがない。しかしなにも手を打たないと多大な不正が発生するので、考えを重ね、額面を設定する。言語正義もこうである。


過去の正義は大きな宿題であるが、これからの正義はある意味簡単である。現存諸言語を勘案した人工言語を作らなくても、現実の世界社会から差別と抑圧をなくし、あるいは減らし、その上での自由交流に任せればよい。暴力(外への暴力)は取りしまり、また「〇〇語の正しい規範をまもれ」(内への暴力)とも言わなくてよい。「脱伝統・脱民族」の言語復興である。


その際、「自由な交流に任せ」た場合、言語は、方言はどうなるのか。

混ざって、一様になるのであろうか?

遺伝子による肌の色は、おそらく一様化する。これは自然のものであるから、混血が進むと黒人・「黄色人種」・白人などの肌合いが混ざった外見の人類ばかりになると思う。


しかし、「社会的自由交流」の結果は?

筆者はそういう研究を寡聞にして知らないが、かえって多様化する可能性がある。

自由な交流は個性の自由をもたらし、世界各地で独自の個性的な文化や言語が花開き、そしてそれは「〇〇社会の伝統」として固定せず、明滅しつつ移動していくのかも知れない。アメリカ合衆国で言う「サラダボウル」がこうであろうか。




大阪弁論のつもりが、だいぶふきました(笑。

今日のところはこのぐらいでやめときます。

アイヌの、台湾の、朝鮮の、香港の、マカオの、琉球の、中国の、大阪の、土佐の、吉備の、東京の、アメリカの友人たちに読んでほしいです。


  臨夏@2021.5.5 大阪にて

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