〈重要〉弁証法と唯物論。マルクスを越えて

ぼくは、「大客体」(デカルト機械論的・物質的客体つまり小客体に、主体を加えたもの。「身体」。)を「即かつ対自」とおく。これが全体の大枠である。
そのなかの内枠に、「主体」をおき、これが「即自」である。
対自は、枠を構成しない。
ちなみに、身体でない「肉体」は、意識(主体)の周りのドーナツ部分。これが「小客体」。

これが、一元論的弁証法や!

二元論的弁証法は、ありえない。
レーニンの正反合理論が、これ。
主客二元論は、デカルト主義であり、排他的に対立する主客は、アウフヘーベンしない。
なぜなら、排他的二者を寄せ集めるのは、経験論やからである。

・弁証法は本質的に一元論的相対主義。
・デカルト客体主義が、サイエンスで、機械的唯物論。これが、一元論的唯物論で、エンゲルスである。
・量子力学は、多分一元論的弁証法。
・デカルト主体主義が、一元論的観念論。ヘーゲルが、これ。

サイエンスと弁証法は両立しない。
弁証法は、たった一つしかなく、それがカドタ主義。
エンゲルス、レーニン、ヘーゲルは間違い。

ややこしく書いたが、
一元論的相対主義と、一元論的弁証法と、弁証法は、みな同じです。

対自は、実体でなく、間の関係、運動、つまり空やから、ベン図において枠を構しません。

やはり、唯物論は間違いですね!
唯物論は、機械的唯物論、つまりぼくの言う、肉体一元論でしかありえない。
その意味では、エンゲルスこそが、真の唯物論者なんですね。

物質とは、眼耳鼻舌身の、肉体つまりデカルト客体でしかない。
量子は物質でなく、肉体に意識つまり主体を足した身体。

わたしは、身体一元論、つまり社会一元論であり、
唯物論つまり物質一元論ではない。
唯物論を否定します。

プレハーノフのマルクス観、弁証法的唯物論は、ヘーゲル弁証法という主体一元論と、唯物論というデカルト客体一元論のアマルガムであり、間違うた哲学です。

多分、マルクスには以上のことに関する思想はありません。唯物論から逃げている。
だからこそ、プレハーノフが不味いごった煮を作る必要があったわけです。
自分では、自分を確かに唯物論者、と規定していますが、あやふやなものであり、まともに聞いてはならない。

わたしは、大客体つまり身体一元論的弁証法論者です。
おそらく、これが真理であり、ライバルは量子力学です。詳しくは知らないが。

みな、難しく考えすぎや。
真理は案外単純です。

表三郎は、「意識は物質的や」と言いましたが、間違いです!
意識は地面に落ちてきません笑

ただ、物質にはデカルトのいう延長があり、これは空間を占めるものであり、バフチンなどを見ても豊かな可能性があります。
つまり、言語でいうと、言語には、かならず振動する空気や紙やインクや液晶、という肉体がある。肉体はおもしろい。人は、同時に2箇所には立てないし(量子的にはどうや?)、二人は同時に1箇所にはたてない。これは柄谷のいう単独性であり、人間性の土台です。
肉体や土地は、社会の土台つまり下部構造か?このへん、私もあいまいなままです。

わたしのテーマ、空間一元論は、成り立つか?
だって、意識に延長はないでしょう。
あるいは、意識とは、空か?
ならば、空間は実体であり、意識や主体は空やから、存在論的に存在しない??
としたら、実体=肉体となり、主体が無なら、カドタは肉体一元論に逆もどりや!
これからの課題です。

サイエンスつまり近代自然科学は、現象学のいう自然的態度です。
結局、機械的唯物論つまり肉体主義です。
肉体をつつんで身体があるが、身体こそが真の物質や!とか言うてはならない笑
身体は、物質プラス精神・意識です。

つぎは、主体概念の再検討ですね。
主体は、デカルト主体のままにしておきましたが、いよいよ楽園追放かな笑

ここで復習しておきますが、大客体と主体は二重丸を形づくりますが、これは集合論のベン図であり、中心の主体には右斜線、全体の大客体には左斜線が入り、つまり主体には左右の両方の斜線が入る。
主体には、主体性と大客体性の二重性があるのです。
主体の周辺の小客体は、一重だけで、これがデカルト主義の、伝統的な客体。
レーニンもエンゲルスもこれで客体を考えていて、二重丸構造に気づいていない。
だから、唯物論の物質と観念(意識・精神)は、互いに関係ない、排他的二項対立になる。これが、二元論。

観念論の反對は、唯物論ではない。

身体が、最大の大枠で、わたしはこれを「大客体」と名付ける。
この内部に、意識・精神・観念があり、「主体」である。
主体のまわり、大客体のなかにドーナツ状に広がるのが、物質つまり肉体で、「小客体」や。

観念論の反対は、唯物論つまり小客体論でなく、身体論つまり大客体論や。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?