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みんないろんなものを持っている。どんなわたしも、全部「わたし」だ。

もう夏だろ。ねこです。

先日、今日あったことを吐き出す日記でHSPであることを許可なく人に知られることが嫌だという趣旨の話をしたのだが、自分にとっての人に知られてもいいことと嫌なことの境界線について考えてみた。


1.わたしは精神疾患を持っている

別のnoteでも書いているかもしれないけれど、わたしは精神疾患を持っている。
それ自体は別に気にしないというか、もう持っているものは仕方がないし多くの精神的な病気はインフルエンザだったり骨折だったりのように「完治」というものは少ない。(と記憶している)
もちろん、長い間症状が出ない「寛解」の状態でずっと生活している人もたくさんいるだろうし、うまく「付き合いながら」生きていくものだとわたしは認識している。

もう1つ、病気ではないがわたしはHSPだ。「だ」と断定するには医学的/科学的根拠もないし、実際に診断されたわけでも周りによく言われるわけでもない。
自分で調べたり診断をしたり家族に話を聞いたりして、わたしはHSPなんだろうなと思っている。
だからといってどうということはなく、わたしの一個性としてHSPだということを受け入れている。つもり。


2.病気と気質

精神疾患は病気。HSPは気質。
病気は薬がある。気質にはない。
そもそも病気は何か原因があって身体の機能が乱れたり崩れたりするものだけど、気質って生まれ持ったものとか(ある程度生育環境とか関係ある部分もあるかもしれないけど)、薬や何か治療でどうこうするものでもなるものでもない。

精神疾患は少し特殊なところがあるけど、病気って大体は見てわかったり自分でも感じることができたりする。
インフルエンザとか骨折とか、風邪だって発熱や咳などの症状があるし、精神疾患も度合いや人によっては第三者から見てもわかる症状が出ることもある。

HSPや例えば最近よく聞く発達障碍(こちらは気質ではないんだけど)、グラデーションがあるものって難しい。
わたしが持っている「音に敏感」や「感情移入」のような特徴って、HSPじゃない人でも持っている人だっている。
わたしも弟も診断されるほどではないが、小さいときに発達的にグレーかなと思うことがあったそうだ。

病気にももちろん症状やその程度に個人差があるが、診断名がついたり薬が変わったりする。


3.わたしの認識と世間のイメージのズレ

わたしは自分の病気や障碍について、今はもう話すことができる。
先にも言ったように、しょうがないからだ。
うつ病だと隠して働くこともできるけど、もし体調が崩れたとき「うつ病だと知っていれば/言っていれば」となる可能性がある。病気を話すことで自分を守れることもあるかもしれないとわたしは思っている。

これは精神的な病気について、以前より知られるようになったこともあると思う。
わたしがもう少し若かりし頃は「うつ病はこころの風邪」という認識が今より大きかった気がする。うつ病だけではなく、不登校や自閉症、身体障碍者などいろいろなところに対して誤解や偏見があったのではないか。(もちろん今も完全にはなくなってないよね)

一方でHSPなどの気質だったりグレーゾーンやグラデーションがあるものについては、最近、本当に最近言われることが増えた気がする。線引きが難しかったりできなかったりする分、「甘えだ」とか「本当なのか?」とか「誰だってそう」とか言われることもあると思う。
それに病気じゃないものに関してはもはや何言われてもしょうがないというかどうしようもないというか、「これがわたしなんで…すいません…」と言うしかない。
改善した方がいいところでできるものであれば変えればいいと思うし、無理なら手持ちのコマでどうにかやっていくしかない。

***

わたしがもし自分のことを話すとしたら、わたしは病気のことしか話さないと思う。

病気はどうにかなるものが多くて治療などで改善するものだ。(そうでないものもあるけど)
そして多くの場合原因がある。

病気や怪我として知られているものは、周りからの理解や協力が得やすい。だって病気だから。
骨折している人に「この荷物3回まで運んで」とは言わないしね。

HSPも最近よく言われるようになったものの、よくわかってない人もたくさんいると思う。わたしのところのボスも調べたって言ってた。調べてくれる誰かがいて理解しようとしてくれるとまだ救われるところはあるけど、みんながみんなそうではないし、「自分だってそうだよ」「みんなこうじゃん」って言われてしまったらそこまでというか。

実際わたしのことを完璧に理解するなんて家族にだって難しいし、わたしもそこまで求めてない。

それでも「そういうところもあるんだ」とただ認識してくれたり、その事実を受け入れてくれたりするだけで救われるところもある。


4.わたしにとってはどちらも「わたし」

病気であるわたしも、そうでないわたしも、Aという性格のわたしもBという性格のわたしも、結局のところ「わたし」の中の1つでしかない。逆に言えば今よりもっと広い、深い、違うわたしがいる可能性だってまだまだある。

それはわたしだけではなくてみんなそう。

わたし個人としては、病気のことも性格のことも話して「そうなんだ!わたしはこうだよ」「そうなんだ!」くらいの輪で広がればいいなぁと思う。
分かっているだけで「そういえばあの人〇〇って言ってたな」とか、「△△って病気らしいけどこれ頼んでよかったのかな、聞いてみよ」とか、そういうちょっとした気遣いができることもある。(みんながしてくれるとは限らないけど)

何より、それを否定したところで、というところもある。
もちろん明らかな嘘の病気を申告したり、バカにする意味で「わたしも〇〇でーす」みたいなのはいただけないが、わたしは逆に「そんな嘘つくのはなぜ…?何か裏にSOSでもあるの?」と変な勘繰りをしてしまう。どちらにせよあまりいいことは起きないけど。

話は逸れたが、どんな性格であれ病気であれ「その人」であるということに変わりはないので、みんな違ってみんないいという金子みすゞ先生の言葉を胸に穏やかに生きていこう。ね。



※サムネはみんなのフォトギャラリーより拝借しています。

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