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のさりの島

ここ数年、なんとなく気になる俳優である藤原季節さんの主演作

のさりとは、受容度の高いという意味らしい。田舎や島の生活あるある、なのかもしれない。

季節くん演じる若者は、彼が今までやってきたような、影をまとった癖のある青年で、オレオレ詐欺の常習らしい。(朝顔で演じていた明るい後輩はテレビ用なのかな、いや三ツ星だって影ありだった)

で、商店街の地図を前に適当に電話をするわけだが、その時のずる賢そうな、だれでも食い物にしてやる感じが、ばあちゃん本人との対話の中でどんどん萎えていくのが、いい。

観ているわたしには、ばあちゃんが確信犯であることはわかるのだけど、この話のおもしろさは、ここにあって「どっちが騙してるんだかわかんないよね」ってとこだ。ぼけているかのように会話をはぐらかすのは、若者相手だけではなく地元の人たちにさえはぐらかすときの常套手段は、私年寄りだから的な、ユーモラスなずるさだ。

商店街の歴史を残したい青年たちとのかかわりは、彼にはあまり影響力を持たないけれど、それでも淡い感情は確かにあった気がするし、それに応じてしまうには自分が汚れていることも自覚していたように思った。

結局、亡くした孫とのあったかもしれない日常を、取り戻せた気がした老婆の独り勝ちなんだな。それでも若者になにか刺さっている気はする。今日明日の段階で彼が変わるとは思えないし人間そんなに簡単に変われるなら、彼はこんなことになってないんだろう。でものさりの島で受容されたことで変わらんといかんなとは思ったのかな。だといいな。そういう映画だった。

疑似的にばあちゃんと孫との生活を楽しむ二人の醸し出す空気がいい。原さん最後の作品だったとか。季節くんいい経験したよね。ベテランとの時間は欲して得られるものじゃないから。

2年前の撮影と聞いたので、今の彼だともう少し深みが出たのかもしれないと思う。海辺での彼女との会話の一部がどうにも棒読みに聞こえたのはわざとだったのか、聞いてみたいなぁ。

嵐電もそうだったけど、なにがどうということではないけれど、そこで起きたことがらが、人にはなんらかのスイッチになって、なんて、まるで志摩一未みたいなことを思ってしまったわけだけど、そういう映画の類は、首根っこつかまれて揺さぶられるような感情の波はやってこないけど、凪いだ海みたいなひたひたとやっては消える感じの、感動がある。インディーズ映画ってそういうとこが、いい。

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