ロックな君とはお別れだ―2021年3月11日

・4月が出会いの季節なら、3月は別れの季節と言えるだろう。学生は卒業して同級生と別れ、社会人は人事異動で同僚と離れ離れになるかもしれない。別れは人々の心に影を落とす。でもそれはただの暗がりではなく、その向こう側に光り輝く未来があることの裏返しかもしれない。私達は別れを乗り越え、未来へ進んでいかなければいけないと感じる。

・推しのVtuberが引退した。いや推しと言えるほど応援していたかと言われると、素直にはうなずけない。最初の方こそ配信を追いかけてはいたし、彼女が所属するユニットのデビューアルバムも購入した。ラジオも毎週聴いていたし、抽選に漏れはしたものの1st.ライブにも応募した。だがそれ以降はツイッターの投稿を眺めたり、たまに数か月前の配信を聞き流したりする程度で、ファンと言えるほどのことは何もしていなかった。現に引退を発表した配信も未だに見れていないし、これからも観ることはないだろう。今まで何の音沙汰もなかったのに、引退が決まった時だけ野次馬のようにのこのこ戻っていくのは、彼女の決意や覚悟を軽視しているようでやりたくない。こうして日記のネタにすることさえ、本当ははばかれることだろう。

・今回の引退は、ツイッターのトレンドをほぼ独占するほどの悲しみをファンにもたらした。1週間ほど前にメンバー限定配信ですでに引退は告げられていたし、無粋極まりない連中にリークされたことで話題にはなっていたが、やはり公の場で本人の口から大々的に発表されると、その重みが違う。一気に実感が沸き上がり、鉛を飲み込んだような感覚に襲われた。私のようなニワカでさえそうなのだから、絶えず彼女を応援し続けてきたファンにおいてをや、であろう。

・Vtuberの引退は、アイドルや声優の卒業とは少し意味合いが異なる。アイドルや声優が卒業しても、その存在がなくなるわけではない。俳優に転身したり専業主婦になったりと、別の業界や場所で活動は続けるだろう。関わりが多少薄くなるとはいえ、応援の声が届く場所には居続けてくれる。

・対してVutberの引退は、いわば死と同義だ。キャラクターの姿と設定は電子の中に埋葬され、魂はその肉体から離れて現実世界に舞い戻る。私たちは偶然その魂とすれ違うことはあっても、それが「あの」キャラクターと結びつくことはない。Vtuberとしての存在は、外面的にも本質的にも、引退とともにキレイさっぱり消えてなくなるのである。

・いうなれば今回の引退でファンたちは死別したのと同じぐらいの悲しみを受けたはずである。だがツイッターでの反応を見ると、多くの人たちが彼女の決意を肯定的に受け入れているように見えた。「やりたいことが見つかった」と語る彼女に、みなが「別の世界でも頑張ってね。応援しています」と応援の言葉を投げかけていた。そうした暖かい言葉を見て、私は気持ち悪くも「ああ彼女は愛されていたんだな…」と感動してしまった。その嬉しさは、あるいは引退それ自体に対する悲しみより強かったかもしれない。

・寂しいという気持ちはもちろんあるし、他のファンも同じ気持ちだろう。だが、それでも皆はただ嘆き苦しむわけではなく、彼女の前途を応援し、そうすることで自らも前に進もうとしている。大げさな言い方だが、そこに人間の美しさを垣間見たような気がした。魔法の解けたシンデレラは、私達にとてもキレイな"ガラスの靴"を残していってくれたのだ。

・4月が出会いの季節なら、3月は別れの季節。残された者たちは、新たな気持ちを胸に、輝かしい春に向かって進んでいかなければならないのだろう。覚悟のもとに去っていった彼女の決意が、後悔へと変わらないように――


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?