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シン・エヴァンゲリオンの感想はききたくない

電子の海をくぐると、シン・エヴァンゲリオンの感想が無数に転がっている。

とかくエヴァンゲリオンは物語が難解なので、アマ・プロ問わず様々な人たちが自らの考察を話したがる。それを抜きにしても26年間のエヴァシリーズにピリオドを打つ作品だけあって、その喜びや寂しさ、不満といった感情こみこみで語りたい人が多いのだ。

私が好きなオモコロという媒体でも、ファンクラブ会員限定で所属ライターたちがシン・エヴァの感想を語り合うラジオが掲載されている。過去には同じように「天気の子」や「連ちゃんパパ」について語るラジオもアップされており、それらはアップされた瞬間に飛びつくように聴いた。

だが今回のシン・エヴァ感想ラジオについては、いまだに聴けずにいる。

それは誰かの感想を聞くことで、自分の感想が歪められることを恐れているからである。


私は他人に振り回されやすい人間だ。友人たちがプレイしているゲームはたとえ興味がなくても必ず買っていたし、知り合いがたくさん入っているという理由だけで好きでもないサッカー部に入部したこともある。いわゆるミーハーと呼ばれる人種なのだ。中高生時代こそ多感なお年頃によくある「マイナー至上主義」に走っていたが、いまだに流行に乗り遅れることには一抹の不安がある。

かように私は"他人がどうしているか"に敏感に反応し、その動きに合わせなければ安心できないタチなのだ。

意見や感想についてもそれは同じである。たとえば私は牛肉を美味しいと感じている。しかし誰かに「いや牛肉はマズイよ!」と自信満々に語られると、途端に自信をなくし、「たしかにマズかったかも……」と思い直してしまう。それ以降は「牛肉はマズイ」と本気で信じ込み、実際に食べても美味しさを感じなくなってしまうのだ。

これと同じことが「作品についての感想」という領域でも容易に起こりうる。それがとてつもなく恐ろしいのである。

シン・エヴァンゲリオンは個人的に最高傑作だと思っている。今週末に2回目を見に行こうと本気で考えているほどだ。プペルよろしく3エヴァ、4エヴァしてもいいとさえ思っている。

だが、もし弁の立つユーチューバーやら映画評論家やらが「シン・エヴァは肥溜めの一本糞」と理路整然と語っているのを聴いたら、きっとこの熱意と称賛の気持ちは薄れてしまうだろう。クソとまではいかなくとも、見えていなかった粗が急に見え始め、「そんな絶賛するほどでもなかったな」と評価を90度ぐらい変えてしまうのは想像に難くない。これは憶測ではなく、これまで幾度となく経験してきたまごうことなき現実である。

私の中で形作られたシン・エヴァンゲリオンへの印象を、輝かしい姿のまま守り抜きたい――だからこそ、私はシン・エヴァの感想を聴きたくないのである。

ただ、自らの感想を誰かと「答え合わせ」したいという欲求もある。自分の解釈は合っているか、美的センスは他人とズレていないか。それを確かめて安心したい気持ちがあるのだ。

感想なんて人それぞれだから正解も不正解もないだろう、という意見はよくわかる。しかし私のような世間と迎合することで生き延びてきた人間にとって、"みんなとちがう"ことは罪科とイコールなのである。天動説が主流だった時代に地動説を唱えた者がどのような末路をたどったかは皆の知るところだろう。

だから私は、私の抱いたシン・エヴァの感想がみんなと同じであることを知り、私が世間にとって異分子ないし唾棄すべきバカでないことを確かめたいのである。

誰かの意見を知ることで自らの感想を歪ませたくないという思いと、自分の解釈や感覚が世間とズレていないかを確認したいという気持ち。

このせめぎあう葛藤に折り合いをつけることは、いまだにできていない。

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