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パチンコの効用

一時期、パチンコをやっていた。やるといってもあまり金を使うことはしなくて、大抵は一度に五千円、多くて一万円ほどしか使わなかった。儲けるというより、パチンコ店の馬鹿げた喧騒に埋もれたかったのだ、なんて書くとカッコイイが、要は気分転換。パチンコに横溢する露悪的なデザインや言語に接するのはおもしろい。もちろん、勝てばなお良い。

寺山修司はパチンコ球の上から下に落ちていく様子を人生の一回性になぞらえていたし、ロラン・バルトは「パチンコの玉の進路は、はじくときの一瞬の稲妻によって宿命的に決定される。」と書いている。
寺山やバルトの語るそれは一個一個の球をレバーで弾いていた手動の時代のことであり、技術が必要だった(らしい)わけで、ハンドルをひねるだけで次々に球を打ち出す現在の機械まかせのものは、要する神経も違えば、時間当たりに発生するトライ&エラーの量にもけっこうな違いがあって、風情も何もあったものじゃないけれど、いわば運命論的遊戯の現在のパチンコは、その連続して打ち出される球ひとつひとつの放擲が心地良い。“ 放り投げる” ことは気持ちがいい。

当時、私はわりとハイソな町に住んでいたけれども、駅の近くだけでも、意外なことに五軒もパチンコ店があった。客層は普通のパチンコ店と変わらない、ジャージにサンダルにくわえ煙草のパチンカー。いや、パチンカーという言葉があるのかどうか知らないが。ともかく、こういう人たちはどこにでも存在するんだなぁ、と不思議に感じた。傍から見れば俺も同じ種類の人間なのだろうとも。

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