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絶えないように



絶滅生物。絶滅の理由が明らかな種もいれば、不明な種もいる。単純に生息地域の環境変化に適応できなかったのか、他の動物からの干渉によるものか、絶滅に至る未知は様々だろう。みんな揃ってヘンな毒きのこを食べただけかもしれない。

いずれにせよ、自らの置かれた環境に適応できなかったという、ある意味、不器用な生き物だともいえる。もちろん全てがそうではなく、隕石や氷河期なんて場合は防ぎようがない。運がなかったというそれだけだ。ヴォネガット風にいうと“So it goes.”だ。

それはいつか人類にも起こることだ。さらには個人にまで視点を向ければ、人間が何かに絶望したり極度に不安や心配事を抱えたり、生きづらさをかんじるということも絶滅の縮小版といえるのかもしれない。

「啐啄同時」という言葉がある。卵から雛鳥が出ようとするときに、親鳥がそれを察知して外側から殻を割るという。そうやって、その種の鳥は絶滅することなく血を絶やすことなく今日まで存続している。
一方で人間は、適切なときに適切な“ことば”を他人にかけられているだろうか? その能力が備わっているのだろうか? 私にはわからない。きっと備わっている人もいるのだろう。

そしてまた絶滅生物に立ち返ってみるに、言葉をもたない彼らは言葉をかけることなく、かけられることもなく絶滅をしたのだろう。(そのなかには河童もいたかもしれない。) 
しかし宇宙規模のマクロな視座では、そこに孤独性と一瞬のきらめきがある。何億年単位のなかの刹那的な生命。それはどこか美しい。

しかし、私たちは生きるべきなのだ。強調する。私たちは五感を備え、言葉をもっている、音楽をもっている、物語をもっている。そして、いつかやってくるだろう絶望の兆しを、敏感に察知することができる。世界は憂慮に満ちているがきっと克服できる。

いつかは絶滅する。それは全ての生物の宿命だろうが、少なくとも人間が人間をダメにしてはいけないんじゃないか。
どこかで、ある人間が「手当てをしてあげる」と唄っている。そう、人間はきっとお互いを手当てすることができる。
そう思いたい。

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