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かつての手触り。

「俺って昔本当にボクサーだったんだなあ」
と、しみじみと思った。

勿論、人生で最も情熱を傾けたのがボクシングで、そこに嘘などは無い筈だ。
とは言え、いつ頃からなのかは覚えていないが、他人にボクサーだったと話す時、事情があってプロキャリアの全てが海外での試合だったことを話す時、そこに拭い難い気恥ずかしさを感じてしまうようになった。

僕は2週間程前からスポーツインストラクターを養成する職業訓練学校に通っている。
そこでも当たり前に自己紹介その他で過去にボクサーだったと話し、聞かれれば関連のあれこれについても話した。

慣れたこととは言え、話をしながら、とうの昔にボクサーではなくなってしまった自分との乖離を空々しくも感じた。

勘違いして欲しくないが、僕は自分が15年間をボクシングに費やしたこと特に後悔しているわけではないし、そのこと自体を恥ずかしいと感じているわけではない。

恐らく僕が感じた気恥ずかしさの正体は、珍しい体験談を耳にする彼らの、大抵は好意的な驚きを持っての反応に対して「いやいや、そんなに良いものでも無いよ」という戸惑いが理由の一つとしてあるのだろう(勿論、もう反面の嬉しい気持ちもある)。

そしてその戸惑いは、ボクシングから遠く離れば離れるほど大きくなっていった。
30歳でドイツのハンブルクで惨敗して引退してから15年以上。
既にボクサーであった感触は身体の何処にも残っておらず、ボクシングについて議論する友人など殆どいなくなった。

気恥ずかしさや戸惑いの正体をもう少し突き詰めて考えてみると、「ボクシング」など自分の何処にも残っていないにも関わらず、ボクシングでしか語られることのない存在の透明さに対する自分への苛立ちが大きいのではないか、という気もする。

しかしそれでもやはり、冒頭で書いたように、ボクサーだった自分を実感してそれに親しみを覚え、嬉しくなった。

それを感じることが出来たのは、30人の学生達の中に、僕以外にももう一人、ボクサーが、しかも現役の女性プロボクサーがいたからだ。

僕は彼女のミットを持ち、実戦的に向き合ってシャドウボクシングをした。
それも2日連続で。

ミットを持つなど何年振りだったろうか?
引退後に高校生の頃からお世話になっていたジムで後輩のミットを持っていた頃(それが初めてのミット持ちになる)からだから、12年ぶりになるだろうか。

女性プロボクサーは、思っていたよりずっと良い。
ただ、あまり良い指導を受けていないのだろうということは容易に想像出来た。
聞くところによると、彼女の所属するジムには常駐のトレーナーがいないらしい。

僕は彼女に、(偉そうにお前は何様だという思いを抱きながら)指導をする。

彼女は真っ直ぐのパンチとフックは良いがアッパーが上手くない。
アッパーは、股関節の回旋という横方向の力を縦方向に変化させる工夫が必要だ。
そのアイデアを幾つか教えて、詰め込み過ぎてると感じてそう言った。

二人で動きながら指導をしていると、まだ居残っている他の学生達から「おお〜」とか、「すげえ」とか、そういう声が聞こえてくる。

ファイター型の彼女に、サイドに動こうとする相手の動きをカットするように斜め前に大きくステップすること、頭上からの俯瞰的な視点でリング内の自分と相手の位置関係を把握出来るようにすることを、息も絶え絶えに指導する。

加えて彼女は股関節の動きが良くないので、股関節のトレーニングをして、股関節の動きをパンチとディフェンスで単純化して連携させるように指導した。

彼女は、彼女にフィットする良い指導者がいればもっとずっと強くなるだろう。

教室を閉めなければならない時間になる頃には、普段のウェイトトレーニングや学校の実技ではなかなかかけない程の汗をかいていた。
随分と久々の、気持ちの良い汗だった。

荷物を纏めて教室を出ると、近隣の駐輪場に停めたクロスバイクに乗ってグニャグニャで複雑に交差した道を帰途に着く。
道を間違って遠回りになっても気にならない。

正直に言ってミットはどう受ければ良いのか分からなくなっている程だったが、向かい合ってのシャドウボクシングでは、軽く十年以上は復習することのなかった技術が次々に湧いて出てきた。

かつてボクサーだったという経験は、自分のことでありながらもはや単なる知識に過ぎなかった。

「ボクサーとしてしか生きていけない」と、力も実績もコネもなく海外を目指した青年は、昔を思い出して、「あれは本当に現実のことだったんだろうか」と感動的な映画でも見るように目を細めて懐かしむオッサンになった。

しかしそれでもちょっとしたトレーナーとして過ごした僅か30分程度の時間に、僕は実感を取り戻した。

女性ボクサーは「また教えて下さい」と言ってくれた。
僕は「いつでも声掛けて下さい」と返した。

僕は、自分がなりたい存在にはなれなかった。
ボクシングについて考えるとき、敗北感以外を感じることが難しいことも少なからずある。

でもまあ、少しだけは誇りに思っても良いのかも知れない。
そう思った。












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