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【映画】『ジュディ 虹の彼方へ』ーーあるべき子供時代を過ごせなかった少女としてのジュディ

人は産まれて、まず母親をそれと認識するだろうか。
続いて父親、兄弟姉妹。
そして近所の人々を認識し、同年代の幼なじみが出来て、その後幼稚園、保育園へと進んで両親以外に自分の世話をしてくれる大人を認識し、同じ歳で同程度の認識能力を持つ子供たちを様々な性格をもった写し鏡として認識する。
小学生になるともっと多くの子供達と接するようになり、中学生になると小学生の頃では違った学区の子供達と出会い、さらに高校、大学、或いは社会人となって……。

ようするに、人は、子供時代のある時期に少しずつ心の中にある「世界」を広げていく。
ちょっと斜に構えてものを見る人ならば、学校教育というのは人を横並びに育てる洗脳だというかも知れないが、社会生活というのは通常直接的、あるいは非直接的コミュニケーションで成り立っているものだ。

この映画は、そういった「あるべき子供時代を奪われた」永遠の少女、ジュディガーランドの最晩年の物語。

ジュディは、結婚を経験し、子供を持ち、大人になっても、社会的な意味での「大人」だとは言い難い人だ。
定住先もなく巡業のためにホテルを渡り歩き2人の子供に相応しい環境を与えられない。
そのような彼女の社会性の無さを表すエピソードと共に交代で順に繰り返し紹介されるのが彼女の子役時代のエピソードだ。

この映画の中で紹介された彼女の少女時代を振り替えると、好きなものを食べることは許されず、仕事ばかりで恋愛も許されず、誕生日のパーティーは実際の2ヶ月前に大人ばかりの中でおこなわれ、太り易かったため当時ダイエット薬として使用されたアンフェタミン(覚醒剤)を与えられ、眠れない夜は睡眠薬を与えられた。

子供時代というのは取り戻せない。
とてもチャーミングで才能に溢れたジュディが、あるべき子供時代を過ごせなかったばかりに、まともな社会生活を送れない。

ジュディは13歳で『オズの魔法使い』の主演に選ばれ、大スターとしての道を歩む。しかしそれは「選ばれた」と同時に、その後の道も含めて「選ばされた」のだとも言える。
彼女の中にある「世界」を広げることが出来ず、銀幕のスターとして、「愛される」か、それとも「愛されないか」でしか世界を判断出来ない。

そのジュディの姿を見ていて、アメリカなどでたまに聞く、超高IQの天才少年が飛び級飛び級でステップアップして小学生から中学生くらいの年齢で大学の学部やそれ以上に進級した挙句、社会生活が上手くいかなくて期待された道からドロップアウトするというどこかで聞いた話を思い出した。

レネゼルヴィガーの演技は完璧。
繊細で傷つき易く、愛してくれる人を無条件に受け入れるこの映画において求められるジュディ像を完璧に作り上げている。

この映画は、現在と少女時代が繰り返される前半と、アメリカでは求められなくなった彼女がイギリスに渡ってすったもんだありながらも、愛されながらステージを去るまでの比較的平坦な作りをしている。

ただし、エンディングはその分とても印象的で感動的です。
家庭、家族、あるべき子供時代というものから切り離された少女の姿を、ジュディの最後のステージに重ねて欲しいと思います。
彼女が愛し愛されたことを、そして今も変わらず愛されていることを象徴するものです。
僕は大号泣でした😭


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