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牛乳を注ぐ女ならぬ、愛を注ぐ女

私は、生涯人が与えられる愛の量って、決まっているという仮説を立てている。
ただ与えられるタイミングが環境によって違うだけで、トータルの量は同じ。
それを500mlのペットボトルに喩えると、人はそれぞれ2種類のペットボトルをエネルギー源として生きていると思う。
1本は他者から与えられる愛。もう1本は、自分が自分に与える愛。

人によっては、幼少期にドバっと大量に愛を与えられる人もいるし、幼少期はほとんど与えられず、大人になってドバっと与えられたり、チョロチョロと与えられていったりする人もいる。

でも、もし与えられたとしても、何かの拍子にペットボトルに穴を開けられて、一気に愛が枯渇することもある。
優しさという絆創膏を貼り付けてくれる存在が現れて、愛が満たされることもある。

でも平気で絆創膏を剝がしてくる人もいて、そのたびに愛が枯渇する。愛に飢える。誰かに愛されたい…という気持ちになる。

それでも、自分で自分を愛することができれば、もう1本のペットボトルで耐え抜くことも可能。

まあ、これはただの私の勝手な持論なので、異論は認める。

でも、私はこの持論がどうであれ、常に周りの人たちのペットボトルに愛を注ぎ続けたいと思う。
教師として、子どもたちのペットボトルに愛を注ぎたい。
枯れそうになってたら誰よりも早く気づきたい。
そんな人間でありたい。

深夜に打った下書きでした。

終わり

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