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キリスト教カルマ論

キリスト教は占いとかスピリチュアルは禁忌。
パワーストーンも石を拝むみたいだから敬遠される。
「幽霊もまやかし」とする具合に科学的な考えがキリスト教だとする風潮もある。
けれど、私の師は「幽霊はいるよ。昔からちょいちょい見た」という感じで、科学以外のものを否定する形でキリスト教の禁忌を理解しているわけではなかった。

私もその理解だ。

あったのだ。
目に見えない、科学で説明がつかない脅威が。
元来、キリスト教における占いの禁止は、その脅威があったからこそ制定された。
現代でこそ科学を唱えるけれど、その昔は科学という眼鏡はなく、目に見えない脅威が事実だったのだ。

私はキリスト教の大きな特徴は「カルマ」という考えに終止符を打った点だと思う。
罪や煩悩は何度生まれ変わっても同じテーマで苦しむって感じの考え方。
悟りを開かなきゃ終わらないとなると仏教っぽい。

ユダヤ教の死後の概念は かなりふわふわしているみたい。
時に天国や地獄を信じたり、転生すると思われてたり、信仰のために殉教したら来世はハッピーだよと説いたり。
しかし、そのいずれも聖典として編纂されることはなかった。
そんな感じだからイエスのいた時代、「カルマ」の考えは当時根強くあったのだろうと思う。
ハンデのある人を哀れむ人もいれば
「先祖が悪さしたからだよ、差別していいんだ」と、片付ける、いや、それ以上に「神の裁き」と捉えることが、自分の正しさとすら考える人は多くいたのだ。

そんな時代にイエスは「この人のハンデは本人のせい?それとも先祖のせい?」と問われたときに、
「そんなもん関係ない。そのハンデはその人がその人らしくある事で神の栄光が現れるギフトだ」と、超ポジティブ思考を宣言したのだ。

多分 超流行ったのだ。
「待って マジで預言されてたメシアってこのことじゃん!」と、ユダヤ教徒の一部が熱狂した。

十字架による「罪の処理」はもちろんだけど、死後の世界観も、輪廻ではなく「神が与えたたった一度の人生」「報われなくても天国がある」という考え方を決定づけた点。
これによって、他人の人生に対する差別やまやかしを大幅に削減させた事が考えられる。

そしてもう一点が、それに付随して占いや魔術などの禁止だ。
これはユダヤ教における一神教成立の理由に遡る。
信仰の父アブラハムが「唯一の神」という霊感を見いだした理由は
人々が「神々」に翻弄されていたからだ。
おそらく、怪しい魔術や低級霊はもちろん、国を動かす神々や悪しき霊の存在が事実として人々の営みを搾取していたのだろうと考えられる。
アブラハムは宗教家であり、革命(?)家みたいなものでもあったのだと思う。
神は国や地域の豪族とかに憑いているから、国や権力の争いはそのまま神々の争いでもあったのだ。
アブラハム・モーセぐらいの時代、ヤハウェは「拝一神」というものだった。
つまり「色々神と呼ばれるものはたくさんいたけれど、我々が「神」とするのはヤハウェのみ」という意味。
それが「唯一神」という理念になったのはバビロン捕囚の時。
ボロ負けしたイスラエルが「俺たちはよその神の国に負けたわけじゃねぇ。なぜなら、神ってのはヤハウェしかいねぇから!!」と言い出したのがきっかけだ。
逆ギレだ。

他に事実を認めない「唯一神」というのはこうやってできたんだけど、ともかく「一神教」というのは、本来自分軸を持たない迷信に翻弄される人々の心の道をシンプルにするために「こいつが一番強ぇ神だ!」としたのが始まりなのだ。

決して科学的考えが始まりというわけではなく、考え方の理にかなっているので後に科学的考え方に迎合した似すぎない。

様々な目に見えない「霊」や「魂」を扱う上でキリスト教もその専科である宗教なのだ。
リベラル派の教団は「霊」という考えを徹底的に排除して科学的にかなって見える部分だけを信仰しようとするものもあるけど、それは少し無理があるように個人的には思う。

実際、キリスト教を信仰するってどんな感じかって、もちろん聖書を読む。
現実的な人生を生きる。
けれど、祈りとか、神様の御旨を探るとか、そういった事はかなりかなりスピリチュアル的な領域の精神を要する。

「聖書をふと開いたときに、このみことば(聖句)が示されたんだよね」というのはクリスチャンどうしてよく聞く言葉。
私はあまりこの言葉を信用しなかった。
「たまたまじゃん。病も救いも気からだよ」
と思っていた。

私を見たある占い師が「あれ、同業者だと思ったんだけどな」と時々言う。
ハイヤーセルフという高いところの無意識とお話しできるらしい。
「どうやってやるの?」と聞くと、「簡単だよ。今日靴下どっち履くといい?とかそういうのを自分の頭の後ろとか首とかに尋ねるのよ。何かふと感じたらそれを信じてみるのよ」といった事をいう。
なんだそりゃ~っと思った。
聖書を開いて「これだ」と感じるのも、何かあった些細な出来事から「神様のメッセージかな」と思うのと全然変わらない。

それがいきすぎると、何と繋がって神としてるのか分からないのも同じだ。

さりとてリベラル派が正しいとは言いたくもないから、定義はその人の中にしかないんだけれど。

要は何だっけ。

キリスト教はもっと自分たちが敬遠している世界に隣接した存在だということを自覚したっていいって事。

昨今 心理職に興味を持つ人が増えたことで、「自分の課題に気づいてない人が心理職に興味を持ちがち」というのが賑わっている。
でもそれを通らなきゃ磨かれない。
数いなきゃ、センスのいい人もちょっとしか生まれない。

あるヒーラーの話によると、ヒーラーの講習会場に行くと7~8割方自分が癒やされる必要のある人だという。そういう人はセンスがズレるのか自分が何と繋がってるのか分からずこっくりさんみたいに低級霊に遊ばれるとか、もっとヤバい霊に憑かれるとか色々あるらしい。

キリスト教でもそういう感じはある。

ヤバいヒーラーも怖いけど、患者からしたらちょっとしんどいカウンセラーに人生変えられたら辛いし、宗教だって何が良い部分となるか悪い要因となるかなんて分かりゃしない。

風の時代は心の時代っていうらしい。
心の探求という大海原はどの界隈も冒険だよね。


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