治療するのが「人」である理由ー解離の治療から見えたことー
私の場合は自分が意識している限りは人格の切り替わりはほとんどないタイプだったので、他人と直接話すことはできません。
解離人格は私に絵を描かせる事で自分の意思を伝えました。
先生がそれを受けて解離の気持ちをうまく読み取るので、解離との気持ちの交流にかなり役立ちました。
先生には直で感じ取ることはできないのですが、確実に解離人格は先生の言葉や態度に大きな影響を受けていたところがあります。
何でこんなに解離人格と気持ちが通じるのか本当に不思議でした。
当時の記録に先生を「ムツゴロウ」と呼ぶ記述が残っています。
初診当初、私には解離はありませんでした。
けどその時からすでに先生は、表面の人格だけを見ていない感じでした。
「女性を見たら妊婦と思え」って言葉がありますが、
先生は「患者を診たら・・・」否、「お腹に内臓があるように大人には全員中に別の人がいる」として見ていたと思います。
そんな視点の診察を受ける中で解離人格は出現しました。
もう少し言えば、私の解離は治るために出現したという感じです。
精神の不調全般に言える事ですが、その状態と共に生きてきた事を、「怖い」「未知」「あったらヤバい」というのが至極当然な中で、
真逆の視点で受け入れられるという経験は大きいです。
ただ口先だけで生ぬるく「あっても良いんだよ」と定型文のように言われるのではなく、責任ある1人の他者からの対等なアサーションは、貫き通すようなものがあるのです。
確かに、精神の治療は結局患者本人が乗り越える事です。
けど「普通」とか「当たり前に存在を敬愛される」という経験のない患者には過酷すぎます。
普通に生きる何千倍の時間と労力。人生がいくつあっても足りません。
「生きてさえいれば何とかやりようのある病気」って何だよってなってしまいます。
「ややこしい感情がないからAIの方が精神の治療に向くんじゃないの?」と言う声や「まともな治療者に恵まれないから独学の方がマシだった」という方が本当に多い・・・
そんな時代に、治療者が人である理由を最近よく考えます。
とはいえ、全ての治療者にムツゴロウ性を求めるのも狂気ですから、何か面白いなと思ってもらえる程度で読んでください。
読んでくださり ありがとうございました!
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