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劇作家による嘘文章講座ー架空の人物の作品、講評しますー


はじめに

本日2012年、1月1日元旦から始めるこの企画、その名も「伊藤芳樹の嘘文章講座」。
架空の人物が書いた文章を対象に、岸田クンニ男戯曲賞作家である私があーだこーだと言って講評していきます。

記念すべき第一回のお題は「リアル」。すでにこれに沿った自信作を私のもとまで送ってきていただいている。

まず一人目としてご紹介するのは、東京都 アナルでイきたいさん(男性・46歳・自営業)の投稿。

「私は何故感動するのか」

最近、涙腺がゆるくなった。ちょっとイイ映画やイイお芝居を観たりすると、ホロリ、ときてしまう。それが外出先でのことだったりすると、いい歳した男がベソかいてるなんてみっともないから、他人に勘付かれないように必死になる。どうしたもんだろう、と思うのだが、昔より素直に感動できるようになったのかもしれない、と思うと、悪い気はしなかったりもするのだ。

昔の私はドライだった。友人と笑っておしゃべりしているときにも、どこか冷めた目でまわりを見ている自分がいた。愛読書は太宰治の「人間失格」。

弱冠12歳、中学一年にして、主人公の葉蔵に自己投影し、自分も「道化」だと思っていたものだ。その頃までの記憶で心を打った出来事というと、あまり覚えがない。
それからほどなく、私は壁にぶち当たった。今して思えば、なかなか早い挫折だったと思う。これについてここでは多くを語らないが、簡単に言うと、さまざまな重圧や忙しい日常に追われる生活に疲れたのだった。
その頃の私はというと、何をしていても楽しくない。大好きだった、ゲームや漫画に小説も、つまらない。世界のすべてが無色透明無味乾燥、味のしないガムを延々と噛み続けているような毎日だった。
しかし、それでもそのうちに、いくつかのものが、筆からポトリと絵の具を垂らすかのように、私の世界に色どりを与えてくれた。そのうちの一つが、とある舞台だった。あの日のことは、いつまでも忘れないだろう。目の前に広がる世界に、私は打ちのめされた。三度ほど観劇に行った後、それからしばらくは舞台を観ることはなくなるのだが、このときの経験と想いは、私の中に生き続けている。

このように、「人を感動させ得るもの」には、どんな障壁をも乗り越える力がある。「嫌よ。嫌いよ。あっち行って」と言う相手にさえ「好き。大好き。ありがとう!」と言わせる力がある。   
それに対し、巷には、「人を感動させようとするもの」で溢れている。いわゆるお涙頂戴の映画やテレビドラマなどがその一例だ。だが、そういう「あざとさ」は感じ取れてしまうものだ。逆にしらけて、無性に腹立たしくなったりする。
では、「感動させ得るもの」と「感動させようとするもの」の違いはなんだろう。それは、そこに「計算がない」ことだ。書きたいものを書く、見せたいものを見せる、表現したいものを表現する、やりたことをやる。そこにこそ、本当の「感動」が生まれる。
一つ例を挙げよう。電車で年配の方に席を譲ろうとしている少年がいる。相手に遠慮されながらも無事席を譲った少年。おや、まわりを見渡して鼻高々としている……。これを見ている人は気分が悪いだろう。ここに、明らかな「計算」が存在するからだ。これは、「自己欺瞞」とも言い換えられるかもしれない。

人々は、世間に溢れる「計算された行為の数々」にうんざりしている。政治のニュースを見ても、目につくのは計算され尽くした、いわゆる「テンプレワード」である。「国民の皆様のために」「誠意をもって」「真摯な態度で」……云々。そこに「落胆」はあっても「感動」などあるわけがない。
だからこそ、人々は「計算外の行為」を称賛する。昨年の東日本大震災の際に、サッカーJ1ベガルタ仙台ユース所属の15歳の中学生が、大津波に流されながらも母子二人を救うというニュースが報じられ、インターネット上などで称賛を浴びた。この行動にはもちろん計算などなく、単純に「助けなければ」という一心から起こったものだからこそ、人々の心を打ったのである。
また、先日、日本を訪れたブータン国王の誠実な姿には、多くの人が心を打たれただろう。彼からは、溢れんばかりの日本への愛が伝わってきた。彼が日本の国民にあたたかく迎えられ、そして見送られたのは、そこに計算がなく、ただただ日本のことを思う気持ちが感じられたからだと言えるのではないか。

そう、言うなれば、「計算なきところに、感動あり」なのだ。私が観た舞台も、「お客さんを感動させよう」なんて無粋な思惑は感じなかったし、むしろ「お客さんと一緒に楽しもう」という気持ちが感じて取れた。だから、当時最も感動させることが難しい人間のうちの一人であったかもしれない(言い過ぎか……)私をも、感動の渦に巻き込んだのだ。

そうなってくると、「私は何故感動するのか」……この問いに対する答えも決まってくる。そこに計算がないから、つまり「向き合っている相手の、リアルな心が感じ取れるから」……とでも言っておこうか。
私は、常にリアルを感じていたい。そして、これから私が表現する側へとまわることがあるなら、それを受け取ってもらう皆さんに、私のリアルが感じ取れるような、そんなものをつくっていきたいと思う。

東京都 アナルでイきたいさん(男性・46歳・自営業)講評

この文章でアナルでイきたいさん(以下、アナイきさん)は、「感動させ得るもの」と「感動させようとするもの」の違いは「計算があるかないか」であり、書きたいものを書く、見せたいものを見せる、そこにこそ、本当の「感動」が生まれる……と述べている。

なんとなくもっともらしい話ではある。しかし、私からすれば幼稚な発想で、このようなことを自信満々に話す彼を恥ずかしく思う(爆)。

なぜなら、世の中の「感動させ得るもの」(この表現自体も微妙だ……)にも計算はあるからだ。それを隠すのがうまいだけで、ないわけではないのだ。その点を理解せず、書きたいものを書けばいいなどと愚の骨頂であると言える。マスターベーションも甚だしい(怒)。

あと、ブータンの国王に計算がなかったと断言するのもどうかと思う。
いや、本当になかったのかもしれないけど。でも、わからないでしょう?
わからないことを断言してしまうのは、よくないと思います(悲)。
純粋すぎ。童貞すぎ。

私?
ど、ど、ど、童貞ちゃうわ!!(照)

まあ、なんというか、初っ端からひどすぎた。これで46歳とか、寒気がする。ゲロ吐きそう。
文筆業は向いてないので、表現する側になんてまわろうとせず、もっとマシな趣味を見つけてください。

◇◇◇◇◇◇

二本目いきます。
奈良県 おもしろきこともなき世をおもしろくさん(女性・21歳・大学生)の投稿です。

劇評 イキウメ『太陽』を観て「弱いから、強い」

強くなりたい。人は誰しも、そう願う。
ケンカに負けたとき、彼氏に振られたとき、上司に叱られたとき、はたまた病に侵されたとき……いろいろ、あるだろう。前途洋洋と突き進んでいるときは、そんなことを思いはしない。目の前にそびえ立つ壁にぶち当たったとき、人は己の弱さを知り、呪う。
では、その「強さ」とは、一体なんだろう。
「真の強さとは?」
……その問いこそ、この物語の根底に流れるテーマだったように思う。

私がイキウメの舞台を観るのは、今年6月に観た「散歩する侵略者」に続き、二度目である。「散歩する侵略者」では、「人間」と「宇宙人」という大きな構図の中で、人間の持つ「愛」という尊い感情をについて、鮮やかに描かれていた。そして、今回の「太陽」では、バイオテロでウイルスに感染したが、その後奇跡的に回復し、その副産物として人間をはるかに上回る身体を手に入れた「ノクス」(ホモ・ノクセンシス=夜を生きる人)と呼ばれる人々……彼らと、普通の人間で、作中では「キュリア」(骨董品という意の差別用語)と呼ばれる人々の対立が描かれる。

こう書くと、劇作家である前川氏は人々の対立を描く作家なのか、という解釈を受けそうである。もちろん、そういう側面もなくはないだろう。だが、彼の本質はそこにはない。彼は、このふたつの作品において、「人ならざる者」を登場させ、我々「人」と対立させることで、「人」の内面をよりリアルに描いているのだ。「人ならざる者」こそ、「人」を映す鏡なのである。これは、古今東西ありとあらゆる物語を語る上で幾度となく使われてきた手法でもある。だが、特筆すべきは、彼の描く徹底された世界観、その丁寧さ、緻密さである。私は、開演前にパンフレットを流し読みした時、まるで映画やゲームのような設定だなぁ、と感じた。そう、かなり凝った設定なのである。それはある意味、当然だ。言うなれば、「人ならざる者」を登場させる時点で、ある種のリアリティを欠いた物語が展開されることは避けられないのだ。ともすれば、設定に振り回されて何が何だかわからない、作家の自己顕示欲を満たすだけのような作品になる危険性さえ孕んでいる。だが、彼はその嘘の物語にリアリティを持たせるのが実に巧い。目の前に、リアルな物語の世界がありありと広がる。イキウメの舞台美術の手法は、かなりシンプルかつ抽象的で、ただでさえ、複雑な世界観を有するのに、更に観客の混乱を招きかねない。しかし、結果としては、その手法がより観客の想像力をかき立て、物語への没入感を生む。それは、緻密な設定を実に無駄なく物語に落とし込んでいく、前川氏の作家としての手腕と、役者勢の熱演あってこそである。

そして、作中で何度も語られる、「強さ」と「弱さ」。この物語の中で、キュリアである鉄彦が「強さ」の象徴であるノクスに憧れるように、人は誰しも、「強さ」を渇望する。だが果たして、完璧な「強さ」など、あり得るのだろうか? 否、あったとすれば、それは張りぼての「強さ」でしかない。「強くなる」ということは、何かをした結果、そうなる、という単純な数式で推し量れるものではない。自分の「弱さ」と向き合って、乗り越えて、その「弱さ」の果てに「強さ」があるのだ。本当の「強さ」とは、「弱さの内包する、強さ」なのだ。

これは、私が常日頃から自問自答していたテーマの一つであり、こうして改めて人間の持つ根源的な問いを考える機会を与えてくれたイキウメという集団に、敬意と感謝の意を表さずにはいられない。と同時に、自分の考えることをこうも鮮やかに描き切られ、観終わった後に晴れやかな気持ちになったかと言えば、そうでもない……というのが正直なところでもある。

奈良県 おもしろきこともなき世をおもしろくさん(女性・21歳・大学生)講評

いやー、つまらない。あまりに平凡、ありきたりな文章だ。
さっきの46歳はゲロ吐きそうだったが、この21歳はリアルでしんどい。

だって、21歳でしょう? ひどいのはひどいのだけど、そこらのガキがほざきそうなことが山盛りポテトフライで、そのリアルさがガチしんどい(ここで言うリアルはお題の「リアル」とは関係ないです)。

まず私は「強くなりたい」なんて思わない。なるべく弱めに、低姿勢、低体温で生きていきたい。
その辺からおもしろきこともなき世をおもしろくさん(以下、オモローさん)の発想はステレオタイプだ。
「弱さの内包する、強さ」云々もそう。
アナイきさんの言葉を借りるなら、文章を構成する言葉が「テンプレワード」に偏っていると言える。とてもつまらない。

彼女はこの劇評を通っていた演劇講座で提出したとのことだが、講師の反応はいかがなものだったのだろうか?
もしこれが評価されるのが昨今の演劇界の実情であるなら、嘆かわしい限りである。

そもそもの話をすると、まず、「おもしろきこともなき世をおもしろく」という言葉を好む人におもしろい人間はいないというのが定説なので、そこから出直してきていただきたい。
せっかくおもしろい作品をつくってくれた、イキウメに失礼だ。

おわりに

文章を書くことは、楽しいかもしれないが、それなりの責任をともなう。
ましてや、他者を批評するものなら尚更だ。
その意味では、お二人とも、まだまだ精進が必要である。

かくいう私も未だに修行中と言ってよい。
それだけ、「書く」という行為はたいへんで、奥が深いのです。

以上、やや辛口にはなりましたが、「伊藤芳樹の嘘文章講座」でした。
アナイきさんオモローさん、ありがとう。
これからも熱い投稿、お待ちしております。
次回をお楽しみに。

※この企画はフィクションです。実在の人物・団体などには一切関係ありません。

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