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終わりをハッキリ描く

自分への弔辞。

七つの習慣にある「終わりをハッキリ描く」。

私は本当に心の底から合いを分かち合える人に別れを告げて死を迎えたい。一人でいい。その一人を作るのは、これからの自分の生き方次第。本当の「ありがとう」を限りなく純粋にシェア出来ることを目指す。

そうして今現在浮かんだ自分への弔辞。「あなたはあなたの情熱の赴くままに、あなたがやりたいと思うことは、ほぼすべてやりきった。だから、私はあなたが死んでも悲しくはない。私はあなたから、どう生きてどう死ねば良いのかを学んだ。そして、私は私にとって最高の人生を全うします。」と。

私は戦いが嫌い、順位付けが嫌い。競争が嫌い。人と比較して自分が上とか下とか順位何位とか、競争ではテンションが上がらない。競争で押しつぶされそうになる、窒息しそうになる。数字が嫌い、分析が嫌い。ぼんやりとしている方が好き。数字でハッキリと示されて、自分の現実を受け止めるのが怖い。または、人間とか、心とか、人気とか、そういうものが、数字になって、競争心があおられるのが嫌い。競争したくないけど、数字や順位をつけられたら、ムクムクと闘争心が沸き起こってきて、自分で自分が押しつぶされそうになる。

数値化できないもの、目に見えないところに、たくさんのきらめきが詰まっていることも大いにあるのに、数値化されることで、そのきらめきが一瞬にして消え去っていくような、なんとも言えない吐き気が自分の中からせり上がってくる。

いろんな成功哲学の内容を聞いて、私が「それなら受け入れられる!そんな競争なら参戦したい!」って思った競争がある。この世の中の勝者はどれだけの財産を手に入れた者か、ではなく、どれだけの喜びを与えられた者か?だそうだ。その競争なら、私は是非是非参加したいって思った。

自分が死ぬとき、人から言われたい弔辞は何ですか?あなたが死んだとき、あなたは人からどう思われたいですか?


人からどう思われるかをコントロールすることは私には出来ない。そこにフォーカスすると、私はまた苦しくなる。だから、これから自分がどう生きるのか、どうありたいのか、に向けて自分の気持ちと行動を、自分のできることからしていこう!って思った。

人に「ありがとう」って言われたいから、その行動をするんじゃない。自分がやって嬉しいからその行動をする。「ありがとう」って言われたらそれはとっても嬉しい。だけど、それを期待して行動したら、それは自分に対しても、相手に対しても、拷問になってくる。

西の魔女の世界で、散々その苦痛を味わってきた。自分はそんな存在にはなるまい!と固く固く、誓った。もし、相手からの何らかの反応に、自分が苦痛を感じたなら、しなやかに、自分が心地よい方へ、自分を流動させようと決意した。

「成功」というものを目指して、というその動機すら、私には何か大きな圧を感じる。だから、私は「より心地よい自分になる」という言い方で自分を導いていきたい。そもそも、何が成功で何が失敗なのか、何がゴールで目標で、どうなればすごいのか、嬉しいのか。それは自分の心でしか感じられない。

ずっとずっと幼い頃から、思ってきたこと。超超豪華できらびやかな結婚式を挙げ、涙ながらに喜びを語る二人が、数年と経たないうちに、また何十年も経った後に今度は別の涙を流している。私は絶対にそんな風になりたくないってこと。

形じゃない、目に見えないところに、真実がある。今でもその思いは変わらない。だけど、形は見えるからわかりやすくて飛びつきやすい。

それでも、幼い頃に自分自身に刻み込んだ思いを大切にする。数字を大事じゃないなんて絶対に思わない。大事だとも思っているからこそ、動揺する自分があるんだと思う。だけど、自分に戒めたいのは数字にとらわれるあまりに、本当に大事なことを見失ってしまうということ。そうして私は、見失わないために、冒頭の弔辞を今朝したためた。


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