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第31次笑の内閣「ゴメラの逆襲 大阪万博危機一髪」レビュー(追記版)

前回の感想では「ゴメラの逆襲」を見て感じた、権力の在り方、権力との距離の取り方について書いた。

今回はネタバレを含む内容にも触れつつ、さらに今回の公演について考えてみたい。

今回の公演は、特撮をモチーフとしながら2つの異なる物語が同時進行する。ひとつは2025年開催予定となっている大阪万博について、そしてもうひとつは劇団としての「笑の内閣」についてだ。
2025年の大阪を舞台としているため、前者が物語の本筋となるのだが、笑の内閣の代表でもあり看板俳優でもある髭だるマンが演劇活動を休止している現状についても、物語の中でたびたび語られる。

作・演出を手掛ける高間響にとって髭だるマンが、いかに代表として、劇団員として、大きな存在であるか。いかに、大きな影響をもたらす存在であるのか――そういった思いが、切々と語られる。
そのあまりに直接的な告白は、観客にとっては目の前でラブレターを読み上げられているような気恥ずかしさがあるかもしれない。しかし、その切実さと、照れくささが綯い交ぜになったような言葉や動作に、観客は不思議と心が動かされたのではないだろうか。

万博と、劇団のことは、まったく異なる出来事のはずである。
しかし考えてみれば、それは当事者と観客との距離感の違いでしかないのではないだろうか。
劇団内部のことは、極端なことを言ってしまえば、高間と髭だるマンとの間にある問題(あるいは関係性)ということに尽きる。一方、大阪で生活をする者にとって万博はすぐそばにある問題であり、例えば税金といったことに着目すれば、自分自身の問題とも捉えることもできるだろう。
だが、大阪以外、例えば東京で暮らす者にとってはどうだろうか。
お金のことに限っても、あまり自分の懐が痛むような感覚はなく、成功しようが大失敗しようが関係ないという感覚すらあるのではないだろうか――それは大阪にとって、あいちトリエンナーレや東京オリンピックが自分事と考えづらかったのと同じように。

万博の問題は、万博だけの話ではない。
権力とメディアの関係性は、大阪メソッドとして他でも応用される可能性が大いに考えられるし、そういう支配のしかたができる下地はすっかり出来上がっているのだから。
「知らんがな」という態度は、いたってふつうの態度だろう。だからこそ、劇団のことを他人事と感じてしまった私たちは、大阪以外の人間が大阪の現状を笑うこと、冷笑することを責めることはできない。

今回の公演は、もうすぐ東京公演が始まる。
東京の観客にとって大阪の現状、大阪のこれからは、どのように見えるだろうか。

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