半径50cm以内の会話劇:努力クラブ『まぎれられてたのにね』レビュー
舞台の中心には、なにもない――これは比喩ではなく、大道具もなければ小道具もなく、役者もいない。本作はほとんどのシーンで(と言っても動きのある場面はごくわずかなのだが)、画面としての重心が、極端に右側に寄っている。
上手側の端の方に寝そべる男がいて、その隣でへたり込むように女が座っている。冒頭のシーンでは、男は絶えず女のヒザにふれながら話していて、二人は恋人同士であるように見える。恋人同士、と書くと対等そうに思えるが「寝そべる/へたり込む」二人は横と縦、つまりクロスする位置関係にあり、形状としての非対称さが印象的だ。舞台の重心が中心からずれているだけでなく、役者の体勢までもが不均衡なのである。
二人は囁きあうように会話を続け、その会話は舞台上に持ち込まれたマイクを通して、客席に届く。この演出は、努力クラブ 第16 回公演『世界対僕』でも見られた。島貫泰介による公演評を引用しよう。
セクキャバ嬢と客、ではなく、今作では恋人関係にある(と思しき)二人の会話でマイクが使用されたのだが、引き続き「親密さ」や「狭さ」が感じられる。50cmほどの距離で交わされる会話は、マイクを通して会場全体と共犯関係を結ぶかのように響く・・・・・・のだが、筆者が観た公演では中盤に差し掛かるところでマイクが音を拾わなくなってしまった。
演劇において、主導権を握る存在とはなんだろうか。物語を構築する脚本家?それとも、その脚本に書かれた文字を空間に展開する演出家?であれば、脚本・演出を同一人物が担う場合は、その人がその演劇の全権を握る?
マイクが音を拡張しない状況で、役者はそのまま囁き続けることを選んだ。音を大きくするために(=発せられる言葉に重きを置くために)マイクがなくてもより聞こえるよう大きな声でセリフを言うのではなく、客席へと聞こえづらくなろうとも真横にいる相手に話しかける声量であることが選択されたのだ。
幕が上がってしまえば、脚本家や演出家と役者はお互いの意図を確認し合うことができない。当たり前のことかもしれないが、一方通行にならざるを得ないコミュニケーションということが頭に浮かぶ。
舞台の上から漏れ聞こえるセリフは、聞こえたり聞こえなかったりで、マイクを通すよりもさらに狭さが強調されている。
「私のこと好き?」
「本当に好き?」
「証明してほしい」
「信じて」
「一緒に死んで?」
「一緒に死んじゃうの楽しみだね」
聞き間違いもあるかもしれないが、ひどく追い詰められた(あるいは相手を追い詰める)ような言葉が続く。二人が日常や生活でまぎれさせていた、非対称性や一方通行さが、ひそやかな会話により暴かれ、まぎれられなくなってしまう夜。しかし最後には、それまで役者を照らすピンスポットのみだった舞台上が明るくなり、「夜」が明けた。この明るさの中に、二人は再びまぎれることはできるだろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?