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初めての「ロックダウン」

 3月最後の週末は、不要不急の外出を自粛して頂きたい。

 東京都知事の小池百合子が、そんなことを言って、わたしは「対策が遅いなあ」とぼやきつつ(オリンピックの開催有無が決まるまでコロナ対策をする気がないのは、メディアが報じるまでもなくバレバレだった)、タイミングが悪すぎると思った。
 外出自粛を求められた週末の直前の金曜日、わたしは会社の同期との飲み会があった。いつものメンバーでの飲み会なら、こんな時期だから今回はパスさせてね、と言えたし、自分の気持ちとして言っていたと思う。
 ただ、その飲み会だけは、どうしても会いたい人がいた。
 ある男の子にわたしが会いたがっていると知った友人が、わざわざ誘ってくれた飲み会だった。

 その男の子は、熊本出身で、わたしより一つ年上で、関西の大学を出ていて、そこでは哲学(ハイデガー)を専攻していて、ドイツに留学をしていたことのある人だった。それが、わたしが彼について知っているほぼ全ての情報だったけれど、前に一度話してからずっと、また会いたい、できれば仲良くなりたいと思っていた。
 わたし自身、哲学にかなり近い政治学を専攻していて、アメリカへ留学をしていたこともあり、親近感が沸いたというのは、かなり大きいと思う。それから、高校、大学とずっと仲良しの男の子と、どこか似ている雰囲気を持っていて、居心地がよかったせいもあると思う。

 彼と初めて会ったのは、わたしが恋人にこっぴどく振られて、一番の落ち込み期からやっと抜け出しかけてきていた頃だった。当然だけど、元恋人のことが頭から離れないわたしは、恋をする気力も体力もなかったし、新しく男の子と知り合ったって、一ミリもときめくことが出来ない状態だった。
 そんなことだから、初めて彼に会った時も、「友達のマブダチ」「ちょっと嫌な感じかな、そうでもないかな」とかいう、ぼやっとした印象だった。強いて言うなら、イケメンと騒がれている友達より、その隣にいるマブダチである彼の方が、わたしは好みだなというくらいだった。

 二度目に会ったのは、会社の部活動の集まりだった。ちゃんと喋ったのは、多分その時が初めて。ハイデガーが専門だったという彼の話を聞いて、わたしが、ハイデガーの著作「存在と時間」に対して疑問をぶつけてみたところ、なんと彼の意見と衝突してしまい、わたしはタジタジとなってしまった。
「読んでいないのに、聞いてしまってすみません」なんて思った。
 個人的には、著作を知らなくても、興味を持って疑問を投げかけること自体は構わないと思っているのだけれど、確かに、著作を読まないと、例えばありふれた単語である「時間」にしたって、ハイデガーがどのように定義しているかはわからない。
 キーワードの定義も概念の前提もなしに議論するのは、確かになかなか難しい。似たような学問をしていたわたしはその点も理解できたので、ハイデガーの本を絶対に読むぞ、とその時誓った。(結局まだ読んでいない。ちなみに、神保町へ行ったとき、わたしはちゃんとハイデガーの本を探した。ただ、お目当ての本は見つからなかったのです)

 今行くべきじゃない―――わかっていたけれど、これを逃したら、次いつ彼に会えるかわからない!きっと本格的な自粛が始まって、リスケなんかできっこない―――そう思ったわたしは、家族のグループラインに「今日夜食べてくる」と一報を入れた。
 案の定、父親は「あほなのか?」と怒っている。それでも諦められないわたしは、「わかった、じゃあ今日は家に帰る。でも仕事で帰りは遅くなる」と再度連絡を入れ、1時間半くらいだけ……と、新橋へ向かった。

 新橋。学生の頃は一度も行ったことのなかった街。働く人と、そんな彼らが夜に一杯飲んでいく場所で溢れた街。元恋人とまだ付き合う前、同期と一緒に飲みに行った場所。待ち合わせ場所のSL広場へ上手くたどり着けなかったわたしが迷子になっていたら、高架下で思いがけず彼とばったり会うことができて、勝手に運命を感じた街。
 そう、あの時は本当にびっくりした。同じ場所へ向かっていたとはいえ、待ち合わせ場所と全然違うところでばったり会ったんだもの。二人して驚いた顔をして、初めての街でほんの少し心細かったわたしは、吸い込まれるように彼に駆け寄った。そんなわたしを抱きかかえるみたいにふわっと手を伸ばした彼の胸に、飛び込みたかった。雨が降る中、時折二人で木陰や宝くじ屋さんの屋根で雨宿りをしながら、みんなはどこかしらと探していた時、もう少しこのまま二人でいたいわと思ってしまった。
 集合してから決めたお店で、みんなに茶化され、ふざけて二人並んで座らさせられたって、照れない程度には仲良くなっていた。そこにいる誰よりも彼を知っている気分で、なんだか得意だった。
 そういえばその日の帰り際、さりげなく並んで歩きながら、
「今日どうする、一緒に帰る?」
 そう聞かれて、
「うん、そうしよっかな」
 なんて強がっちゃったりしたけど、本当はすごくすごく嬉しかった。
 あの日は、手を繋いで帰ったのかしら。初めてちゃんとキスをしたのも、この日だったかしら。

 と、赤坂見附から新橋への短い電車の中で、そんなことを延々と思い返して、妙にセンチメンタルな気分になっていた。いざ駅へ着いてみると、その前の週にも有楽町で飲んだ帰りに歩いて来たにも関わらず、胸がきゅーっとなった。
 でも、別れたのはもう何か月も前の話。いつまでも引きずっているわけにはいかないし、何より今日は例の彼に会うのを楽しみに、家族に嘘をついてまでここに来たのよ。飲み会メンバーのチャットを開いて、「新橋着いた~」とラインをする。みんなが「俺も」「わたしももうすぐ」などなど、返信をくれる。

 いざお店に着いてみたら、一番乗りだった。一番奥の席に座り、リップを塗りなおし、コートを急いで畳む。彼が、「もうすぐ店につく」と言っていたから。鞄はどんな風に置こうかしら…と迷っていると、人の気配がした。少し気づかないふりをして、それから、ゆっくりと顔を上げる。やっぱり、彼がいた。
「おつかれ~」
 社会人の常套句をお互い口にする。
「お久しぶり、覚えている?」
「覚えているよ」
 彼は笑って答えてくれた。よかった、一応認識はされているみたい。
 そんなことだけでも嬉しくなる。
 今はどこで働いているの、とか、当たり障りのない話をしている間に、他のメンバーも続々とお店へやってきた。
 二人の時には少しわたしから離れて座っていた彼が、みんなに「そっちに詰めて」と言われたので、わたしの隣まで移動してきた。ドキドキはしないけど、なんだかドギマギした。
 友達と話している彼の横顔を、気づけばぼんやり眺めていた。もしかしたら彼は、ものすごくわたしに見つめられている!と感じていたかもしれない。無意識だっただけに恥ずかしくて、なんとなく、運ばれてきた焼き鳥を手に取って食べた。

 ふと、彼が熊本出身だということを思い出し、「わたし、出張でしばらく熊本へ行っていたのよ」と声をかけてみた。
「ああ、それ、△△(例の共通の友人)が言っていたかも。どこに行ったの」
「熊本市じゃなくて、大津だったんだ」
「大津かあ。何があったの、オペレーションセンター?」
「ううん、お客さんがいたの。毎週工場に通っていたのよ」
 熊本県の地域事情はよく知らないけれど、大津じゃあピンとこないだろうなあ、と思った。そこで、ふと思い出した、ある地名について聞いてみた。
「そういえば、大津の隣の隣の隣……くらいの駅の名前が、ファンシーというか、メルヘンな名前だったの。なんだっけなあ。あと、その駅にあるモールの名前もファンタジーな感じで……夢ランドじゃなくって」
 ほんの二か月前のことなのに、案外覚えていないものだなあ、とぼんやり思った。人の記憶とは何て曖昧なのかしら。それにしたって、いくら彼が熊本出身だからといって、こんなマイナーな場所のことなんか知るわけないわよね。どうしようかな、と焦っていると、彼が言った。
「それ、もしかしてゆめタウン?光の森駅の」
 光の森、ゆめタウン。
「それ!!!」
 忘れていた二つの響きが鮮やかに蘇る。
「すごい、なんでわかったの」
 おそらくものすごく目を丸く、大きく見開いて、わたしは聞いた。
「そこ、実家から自転車で行ける」
と彼は笑った。
 自転車圏内……!わたしが訪れたあの場所は、彼が暮らしていた土地だったのね。
 なんだか余計に親しみを感じた。わたしはおかしくって、なんだかずっと笑っていた。
「光の森で通じる人と出会えるなんて、驚いた」
 いつまでもクスクスけらけら笑うわたしにつられてか、彼も笑った。
「本当にね。まさかゆめタウンを知っているとは…」

 その後の彼は、スノボをしようとみんなで話していたら「君は上手じゃないんでしょう」とわたしを仲間外れにしたり、親に嘘をついて来ていることもあって早々と帰ろうとすると「帰らないよな?」と腕を引っ張りわたしを座り直させたりと、ちょっぴり意地悪だったけれど、前よりはずっと距離が縮まった気がした。
 明日からロックダウン。本当は今夜だって出歩くべきではないけれど、この会に来てよかった。そう思った。

※春頃に書いたものです。
ぽつぽつ、日記的に投稿していきます。以下参照。


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