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ゆとりの基準

高校生のわたしは、樽のお風呂に入っている鳥のキャラクターを作って、「湯鳥(ゆとり)」と名付けた。―――ええ、ダジャレですけども。―――今でもわたしは、何かあるたびに「心に湯鳥を飼わねば……」と思っている。

心にゆとりがあること、余裕があることは、結構大事だったりする。

余裕があると、なんだか、いつもより少し優しくなれる気がする。満員電車で人とぶつかってしまっても、家を出るときに忘れ物をしちゃっても、「まあ、いっか」と思えたりする。逆に、いつもなら心地のいい電車の揺れや、通りすがりの人誰かの些細な仕草にいらっとしてしまうときは、「あ、今はきっとわたしに余裕がないんだな」と思う。心にゆとりがないと、小さなことでイライラしてしまうから。

でも、切羽詰まっているとき、本当に忙しいときには、そのことに気づくことさえできなかったりする。

だからわたしは、ゆとりの基準を持っている。

―――自分がまだ大丈夫なのか、ちっとも余裕がないのか、判断するための基準。それがわかっていれば、無駄に人にイライラをぶつけてしまったりすることを防げると思う。

さて、その基準は―――

例えば、空。

空を見て、「ああ、きれいだな」と感じられるうちは、「大丈夫、まだそう思えるだけの余裕が心にあるな」と思う。

逆に、「あ、久しぶりに空みたなあ」と思うときは、「今までは空をみる余裕さえないくらい、切羽詰まっていたんだ。最近、情緒が不安定だったのは、わたしがおかしくなったからじゃなくて、疲れていたからだったんだな。少し休息をとって、また頑張ろう」と思う。

あとは、風。

風に吹かれて、気持ちいなあと感じられるうちは、「あ、よかった。わたしまだ、少しは余裕残ってたんだ。これからもそう感じられるくらいの心の余裕をもっていかなきゃなあ」なんて思う。

まあ、要はなんだって構わないんだけども、小さな日常の幸せに気づけるうちは、「まだ大丈夫」だと思うことにしてる。

つまり、「あれ、最近なんか調子おかしいな」と思ったときは、自分を責める前に、日常の幸せに気づける心のゆとりを持っているか、確認する。それで、もししばらく空を見ていないと気づけたら、そのことにほっとする。


みなさんも、こんな感じで、心に湯鳥を飼うことを忘れないで、生きてくださいね。なんちゃって。

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