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【20歳記念】元引っ込み思案が自分軸を見つけた日#4

どうも、りんごあめです。
新学期でバタバタしてて大変忙しいです。笑

そんな日々を送っていますが、私は自己分析をよくします。
その中で最近「自分変わったな」と感じることがあります。それは「昔よりも周りに振り回されなくなった」ことです。昔はそれこそ、周りの目ばかり気にしていました。

今回はそんな私が”自分軸”を見つけたお話を、過去の話も交えてしていこうと思います。
長くなりそうだったら、前後編に分けるかもしれないです。
また、前回と同様に自分語り・自己分析が主なので苦手な方はブラウザバック推奨です。

引っ込み思案時代

幼少期

私はもう生まれた時から、自己主張が苦手で何をすればいいのかもわからずぼっちでしたね。笑

というのも、私は幼稚園出身なのですが、通い始めたのは年中からだったんです。私の通っていた所は年少よりも前(0-2歳)の組が用意されていたので、ほとんどの人が少なくとも年少から通ってそのままエスカレータ式で上がってきていたんです。

なので、校風を気に入って入ったはいいものの右も左もわからず、おまけに、人に話しかけるのも苦手だった私は年長に上がるまでほとんど仲のいい子がいませんでした。

そんな中、「通学のバスが同じだった」という理由だけで話しかけてくれた子がいました。そして、その子とその子の友達と遊ぶようになり“友達”と呼べる存在が初めてできました。

ただ、卒園と同時に親の都合で引っ越すことになりました。その子たちとは、この後2年間の空白期間を経て再開することになります。

小学生時代前半(1-2年生)

前にも書いてある通り、通っていた幼稚園がある地元から全く知らない場所の小学校に進学することになりました。さあ、新しい戦いの始まりです。笑

引っ込み思案だった私にとって、全く知らない土地で0から人間関係を築いていくのは至難の業です。
そもそも、ほとんどの場合小学校はそこが地元で幼少期から暮らしている子が大半です。学区制なので。
その中にいきなり放り込まれても、友達を作るためのコミュ力は当時の私には皆無でした。勉強だけはそれなりにできたので、授業中の発言はできていた気がします。

なので、ここでも幼稚園同様“待ち”を徹底していましたね。幸いにも、当時女子の間で流行っていたアニメのおかげで話しかけてもらうことに成功しました。
この頃から、少しずつ周りに「不思議ちゃん」扱いをされるようになり一部のクラスメイトから嫌がらせを受けるようになります。

そして、またも親の都合で3年生に上がるタイミングでの引越しが決定。
幼稚園時代の地元に帰ることになり、ここでの友達とはお別れをすることになります。

小学3年

ほぼ奇跡的に幼稚園時代の地元に帰ってくることができました!
ここで唯一の問題が引っ越してきた家が、ギリギリ幼稚園の友達が通う小学校の学区から外れてしまっていたんです。
つまり、「会える距離ではあるが、学校は違うのでまた1から学校での友達は作る必要がある。」ということです。

でも、この頃の私の心はどこか安心していました。
「学校が違うとはいえ、住み慣れた地元だし友達も近くにいる」と無意識のうちに思っていたのかもしれません。

現実は甘くなかったです。
前回の転校は、入学と同時だったのであまり違和感なく馴染めました。しかし、3年生ともなると、ある程度自我や一緒に過ごすグループができていたのです。

おそらく、物珍しさと容姿を理由に人生初のいじめの被害者になりました。地獄のようでした。友達も知り合いすらもいない、右も左も分からない場所でただひたすらにいじめを黙って受け続ける。助けようとしてくれた子も周りの同調圧力で、離れていってしまいました。担任はまともに取り合ってくれませんでした。そんな日々が約1年続きました。結局、味方をしてくれたのは家族と臨時の副担任の先生と幼稚園からの幼馴染2人だけ。

このいじめ論争は副担任の先生が怒鳴りつけて、加害者側が謝るという形で幕を閉じました。
この経験は、私の後の価値観や思考に大きな影響を与えてます。
また、この頃から他人(主に家族以外の大人)に嫌悪感を抱き、音楽やイラスト、空想の世界に浸るようになります。

小学5年

1年ほど飛んでいますが、4年生は本当に平和で楽しい日々を過ごすことができました!! 楽しすぎて、書くことが見つからないくらいには。笑

さて、5年生です。
やっと、この小学校の生活にも慣れてきて、4年生で出来た友達とも同じクラスになれました。このまま平穏に過ごせると心から思っていたし、多分周りの人も思っていたと思います。

そんなことはありませんでした。
最初こそ、友達と遊んだり授業も真面目に受けられました。しかし原因は未だにわかりませんが、時間と共に私とある男の子がハブられていきました。内容自体は、よくある「わー、りんごあめ(本名)菌が感染るー!!」みたいなものです。それだけなら、免疫が前回でついたのであまり気にしませんでした。

この件で何より悪質だったのは、友達が”いじり”という名目で担任や親の目がないところで私の趣味を笑ったり、「家を(親がいない状態で)使わせろ」などと脅しに近いことをされたことです。クラスの中では、仲のいいフリをされていたので担任や学校側には取り合ってもらえませんでした。結局、家族や幼馴染たちだけでは学校内のことに干渉できず、カウンセラーに通いながら通学してました。

学校に行きたくなさすぎて、私の人生の中では滅多にないズル休みをして、習い事(アトリエ、体操教室、水泳)だけ行ったこともあります。
前回と違うのは、学校を出ても逃げ場がないことです。前回はクラス内大きくても学校内だけの被害でした。それが今回は、プライベートまで広がって嘘をついて逃げるしか選択肢がなかったのです。本当に苦しくて、人生で初めて「死にたい」と思ったのがこの頃です。

とにかく現実逃避がしたかったので、創作や幼馴染と遊ぶことが多かったです。一人になると嫌でも学校のことを考えてしまうので。創作で作ったものを家族に見せたり、幼馴染の家で丸一日何かしらのパーティをしてました。

そんな地獄のような日々(人生で2回目)の中でも、嬉しかったことがあります。
それは、授業で描いた読書感想画が学年代表に選ばれたんです!技術的には私よりリアルでレベルの高いものもありました。なので、まさか自分が選ばれるなんて思いもしなかったし、なんならリアルな方が選ばれるとすら思ってました。
推薦してくれた先生曰く「一番この場面の楽しい雰囲気を表現できていたから」らしいです。

良くも悪くも、このいじめの件と読書感想画は考え方のベースに影響していると思います。そして、人間を本格的に信用しなくなっていきました。
「他人なんて、大人なんてどうせ裏切る。もう家族と幼馴染以外誰も信じない。」そんな捻くれた思考が自分の中で形成されてきました。

中学生時代

6年生を終え、小学校を卒業し中学生になりました。
ここで私は今度こそ平穏に過ごすため、ある作戦を考えました。それは「なるべく周りに合わせる」ことです。
考えてみれば、今までクラスや友達にいじめられてた原因は”浮いていた”からなんです。「じゃあ、浮かなければいじめられることもないのでは!?」と当時考えたのを覚えています。笑

1年生は、スタートダッシュを意識しすぎて空回りばかりで結果的に浮いて若干ハブられていました。部活でもクラスでも最初の失敗が印象が強く、どこか距離を置かれていました。そして、それがずっと続けばいくら鈍感な私でもそれに気づきました。そして、不登校になりかけました。強すぎるストレスで体に蕁麻疹が出来たり、空気が読めないやつと思われてほとんど一人で過ごしたり。
でも、そんな中で「一人も悪くないな」と感じて、一人行動が少しできるようになりました。

最初の作戦を徹底した結果、2年生以降はいじめられることなく平穏に過ごせました。
でも、どこか生きにくさを感じていました。今思えばこのあたりから”キャラクター”ができていたからだと思います。そんな勝手なイメージで私を決めつけられてる事実が感覚的に苦しいと感じたんでしょうね。

思考の転機-高校時代-

高校時代の相棒

過去のイメージに囚われずに、”普通”の高校生活を送りたかった私は同じ中学からの進学率が極端に低い高校を選択しました。
そこで出会ったのが、後に高校3年間を共に過ごすことになる相棒です。

この子はとにかく愛嬌とノリが良く、誰とでも仲良くなれるような子でした。陽キャというわけではなく、俗にいう”愛されるバカ”です。
多少口が悪いところがありますが、誰かを傷つけることはありません。考え方もポジティブで「なんとかなる」が口癖でした。

話してるとこっちまで楽しくなるし、距離感もお互い干渉しすぎずでとても居心地が良かったのでずっっっと一緒でした。笑
2年生の担任の先生からはニコイチだと思われていたみたいです。

私は勉強と趣味にステータスを極ぶりしていたので、生活力が皆無でした。その子は勉強が苦手で実技が得意で生活力があったので、テスト前とか授業中は助け合ってました。

そんな相棒との出会いは、意外にも当時の共通の友達からでした。
共通の友達とその子と私ともう一人で、よく話していましたが、文理選択で理系に進んだのがその子と私だけだったので自然とずっと一緒でした。

今でも連絡を取るくらいには仲がいいです。
今思えば、この子との出会いが私の思考のベクトルが変わったタイミングだと思います。
もっと自分本意に生きていいんだ、と思えるようになりました。

部活

高校は世の中でも珍しい競技かるた部に所属していました。
実は百人一首には中学の頃に目覚めてました。しかし、中学校にはかるた部がなかったので高校で絶対にかるた部に入ると決めてました。

そんな念願の夢が詰まったかるた部に入部しました。

部活では、主に大会を目指して練習をしていました。
同高校の卒業生がインストラクターとして練習メニューを考えてくれたり、慣れてくると部員が自主的に練習を始めたりしていました。

ちなみに、私は真面目な人(だとよく言われる)ですが、覚えるまで時間がかかるタイプなので部活外で自主練もしてました。

そんな感じで活動していて、早くも2年生の秋。部員不足が深刻でした…。なにせ、当時は3年生が引退した直後だったので、私を含め2年2人、1年2人。
必然的に副部長をやることになりました。やってみて感じたのは、人をまとめるって大変だということです。

自分と他人は違う人間だと頭では理解していたつもりでした。本当の意味で人を動かす、まとめることの大変さを知った気がします。
でも、純粋に違う考え方の人と関わるのも楽しかったし、同じ学校に生きてても見え方が違って面白かったです!

なんだかんだ3年間続けて引退する頃には、部内で2番目くらいでした。もっと大会経験したかったです。コロナめ…。

生徒会本部

さて、高校時代の私すごいですよね。笑
部活と並行して2年の末から生徒会の本部役員もやってました。笑
こちらも結局引退まで続けたんです。

入りたての頃は1年前からいる後輩の方が仕事が出来るくらいには、何も分からず雑魚雑魚状態でした。
けど、3年生で広報部に配属されてからは私がそもそもデザインが得意だったなどの細かな理由が重なりました。その結果、生徒会の友達曰く「俺がいた3年の間で一番早く部長になった」らしいです。笑

元から人前で喋ったり目立つことが苦手なので、結構不安だったんですが、思いの外裏方仕事と相性が良かったので、引退する頃にはすっかり打ち解けて広報部長やってました。

この経験から「何事もやってみるまで分からないし、自分の能力を活かせる場所で動くことって大事だな。」と思って、私の中でとりあえず、やってみよう!精神が芽生えました。

現在

高校でもっと自分本位に生きてもいいんじゃないか。と感じた私は思い切って、憧れだったデザインができる学科(今の所属)に進学しました。

大学1年生を経て

大学はまだ1年しか通ってないのでネタが無いんです。笑
ただ、1年前のような不安は一切ないです!「友達にも恵まれたし、好きなデザインを広く学べる、こんな整った環境他にもうないんじゃないか。」とすら思ってます。

そして、何よりこの学科に来て良かったと思うことがあります。それは、世界観や考え方を否定されたり偏見の目で見られないことです!!
やっぱり普通科に通ってて生きづらかったのは、少しでも周りと違うとヤバいやつ・変人と思われてしまうことでした。実際病んでた原因はほとんどこれでした。

デザイン学科はみんな各々で独自の世界観を持っていてそれを表現しているので、真っ向から否定されたり変だと言われないんです。しかも、仮に理解できなくても『君には君の世界観があるんだね。私は理解できないけど。』と尊重されるんです。

もう、これが生きやすい理由ダントツです。病む原因だったので、病む回数減りましたし、みんなで課題と戦って仲間意識芽生えてます。笑
世の中の人間全員こうなって欲しい。

仲間で友達だけど干渉しない、付かず離れずな関係が心地よくて、ずっとこのままがいいです。

まとめ

自分史上一番長いであろう記事を読んでくださって、ありがとうございました!

この記事で伝えたかったのは、『もっと自分本位に生きても良いということ』『友達は絶対に必要ではないこと』『人は干渉しすぎると離れていくこと』です。
この考え方を私は自分軸として考えてます。

自分軸で生きられるようになってからは、桁違いに生きやすいし、周りからどう見られても『私は私。』と割り切れるようになりました。日本人は同調圧力が強いので、周りの目を気にしすぎる方が多いと思います。そんな方がこの記事を通して、少しでも生きやすくなると嬉しいです。

では、また別の記事でお会いしましょう✨

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