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勝手に解釈シリーズ★マザーテレサは幸せだったのか?

この記事はnoteを始めてすぐの、約一年半くらい前に書いた記事である。なんとなく下書きに入れたままだった。ここ最近、アップした方がいいんだろうなと思われるサインがたて続けに来たので寝た子を掘り起こしてみた。


マザーテレサと言えばノーベル平和賞も受賞した世界的に認められた聖女である。インドのカルカッタで貧困や病気、障害に苦しむ多くの人々を献身的に助けるストーリーは、みなさんご存じだろうから割愛させていただく。

世間一般のマザーテレサのイメージは愛に溢れた慈愛深い聖女であろう、第三者から見たら……

では本人は自分の事をどう思っていたのだろうか? 多くの苦しむ人々を助け敬愛するイエスに喜ばれ至福の人生を送っていたのだろうか?

7_ イエス・キリストのメシア性~教え・人格|聖書の教え

ここから先は、あくまでもりんご探偵🍎の個人的な考察と思って読んで頂きたい。

マザーテレサは36歳の時に乗っていた汽車の中で神の啓示を受けた。「来て、私の光となりなさい!」と言う神の声が聞こえたのだ。恐らく実在に触れる恍惚感を伴う様な経験だったと推測する。

彼女は、その実在に触れた素晴らしさを忘れられず、もう一度体験を望み、その為に頑張ってきたように私には見える。頑張って神に認めて貰おう! そんな気概を感じる。

彼女の映画を鑑賞したりんご探偵🍎には、どうにもぬぐい切れない違和感があった。なんだろう?この違和感は?と不思議に思った。彼女は献身的で犠牲的な奉仕活動をし世界中から敬意を表される人物なのに……

しかし、彼女の事を調べていくうちになんとなくその違和感の正体が見えてきた。聖女の苦悩が……

毎晩、神に祈りを捧げていたテレサだが、晩年の神への祈りは怒りや恨みつらみが延々と続いていたことをご存じだろうか?

彼女について書かれた書籍「来て、私の光となりなさい!」の中から抜粋。

この本の中で、マザーテレサがカトリックの神父と生涯に渡り40通以上やり取りした手紙の内容が記されている。

私のために祈ってください。私がイエスにずっと微笑んでいられるように祈ってください。私は“神がいない”という地獄の苦悩を少し理解しています。しかし、それを表現する言葉が見つかりません。


この言葉はマザー・テレサが47歳の時の言葉だ。衝撃ではないだろうか。彼女が苦悩していたなんて。

彼女が貧しい人々を献身的に世話したことは素晴らしいことである。だが、もしその動機が彼女の場合「神に褒めてもらう為だった」としたら……
言わば、神と取引をしていた事になる。「これだけ善い事をするから、神様は私を褒めてくれるよね? 愛してくれるよね? また神の啓示を体験させてくれるよね?」

しかし、若き日の汽車の中で体験した神の啓示は無情にも二度と起こらなかった。

そして49歳の時の神父への手紙にはこんな風に書かれている……
テレサが、会いに来てくれない恋人に膨れっ面して拗ねている、そんな印象を受ける。

私の心には信仰がありません。愛も信頼もありません。あまりにもひどい苦痛があるだけです。あなたイエスと私との間には、恐ろしいほどに高い垣根があります。私はもうこれ以上、祈ることはできません。あなたと私を結びつける祈りは、もはや存在しません。私はもう祈りません。私の魂はあなたと一つではありません。


マザーテレサの苦悩の日々は続く。
こんなに頑張ってるのに、質素に暮らし隣人に尽くしているのに、こんなに良い子にしてるのに、どうして神は私に微笑んでくれないの?
頑張れば頑張るほど神への怒りも大きくなる。
世間から見た彼女からは、想像もできない内面の葛藤があったのだろう。そして75歳の時の神父への手紙には

私がシスターや人々に神や神の仕事について口を開くとき、その人たちに光と喜びと勇気をもたらすことをよく理解しています。しかしその私は、光も喜びも勇気も何も得ていないのです。内面はすべて闇で、神から完全に切り離されているという感覚です。


こんなに何もかも投げ出して神の為に人生を捧げているのに! 私の周りの人は私をみて「神の愛を感じる」と言って涙するのに、なんで私自身は神の愛に触れることが出来ないのよ!と怒り絶望していた。


その為か、写真を見ると内側から溢れ出るような笑顔をあまり見ない。どことなくいつも寂しそうに私には見える。
修道女にありがちだが、ちょっと自分に厳しすぎる機雷がある。
彼女は人生を神に捧げ過ぎた。



誤解を恐れず言うならば、オジサンがキャバ嬢にせっせとアクセサリーを貢いでいるのにどうしてデートしてくれないんだよ!
他の奴らは、俺が紹介したからあの嬢とデートできましたと感謝してくる。
なのに、こんなに1番貢いでる俺がなんでデートして貰えないわけ?意味わかんね〜!プンスカプン!こんな感じだろうか……

若かりし頃の神の啓示が、マザーテレサの人生を変えてしまった。そして、残念なことに、その経験に執着しすぎてしまった。その経験の記憶はさっさと捨て去るべきだったと思う。「仏を見たら仏を殺せ」と禅では言うがまさしく神から啓示を受けても神も啓示も捨て去るべきだったのだ。

彼女がどこかで気付いて解放されていたら、もう神の啓示など、どうでもよくなり「ただ目の前の人を助けたいから助けていますがなにか?」と微笑んでいたに違いない。

その時に期せずして神の啓示は再びやって来ただろう。

この世界は本当にパラドックスに充ちている……

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