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10年前のあの日

2011年3月11日14時46分。

かなり強めの横揺れが長く長く続いた…こわい…

5強くらいの地震は今まで何度もあったことがあるけれど、こんなに長く激しい地震は初めてだった。

数分前に母と電話していたのですぐかけたけれど繋がらない。

これは大変な事態だと思った。

テレビをつけたらどこも番組を変更して地震のことをやっていた。

まだなんだか揺れている感覚だった。

動悸がおさまらないままテレビ画面を見つめていたら、生後3ヶ月の息子がうんちをした。

彼はいつも通りだった。

うんちの始末をしていたら、もう一度長い揺れがきた。

オムツをちゃんと履かせられないまま息子を抱き上げて、とにかくオロオロしていた。

揺れが落ち着いてからオムツと服を着せて…

またテレビを見たら今度は津波で東北のほうが大変なことになっていた。

前の職場の人たちは大丈夫だったんだろうか…

とにかく大変なことになったことだけは理解できたけど、どうしようもなく、息子を抱えて夫の帰りを待っていた。

揺れはそのあとも続いていて、しばらく経っても船に乗っているような感覚が抜けなかった。


当時は今のところに引っ越してきたばかりで周りにはまだ誰も知り合いがいなく、電話やメールが通じない時は本当に夫しか、頼る人がいなかった。

唯一、mixiだけは大丈夫ので、それで妹、妹を通じて両親と友達の安否が確認できてよかった。

非常事態時に電話やメールは弱かった。

SNSは有効な手段だと思ったので、その後(だいぶ後だけど)にFacebookや Twitterを始めた。

いやなことがあってやめたくなったけど、やっぱりそのことがあったからと思い続いている。


地震当日からドラッグストアやスーパーでカップ麺がすっからかんになっていた。

原発の事故、計画停電と不安な日々は続き、水がなくなった。買いにきている人たちみんながピリピリしているように見えた。あの時のレジの長い長い行列は忘れられない。

完ミだった息子に水は必須で、でも買えないからおそるおそる水道水でミルクを作っていた。

数年後に甲状腺検診をうけて、なにも問題がなかったとわかったときは本当に本当に安堵して涙が出た。


毎日どう過ごしていたかは思い出せない。

両親も友達も、ガソリンの不足と電車がいつ止まるかわからないからこちらには来れず、私も赤ん坊を抱えているから身動きが取れず、外は放射能が怖くて家の中で不安な日々を過ごしていたことだけは確かで、久しぶりにスーパーに行く時に公園の中を通ったら、公園だけはいつもの日常の空気が流れていて、外はなんと美しいことだったんだろうと思ったことは覚えている。

被害はなかったのに、生きた心地がしない数ヶ月を過ごしていた。



東日本大震災により亡くなられた方々へご冥福をお祈り致します。

避難生活を送られている方がまだまだたくさんいらっしゃいます。それを私たちも忘れてはいけないと思います。


この時の経験が私の価値観を大きく変えたことは確かです。

私みたいに孤独を抱えている人が周りにいるのではないか、みんなで助け合うことができないか、と思うようになりました。


あれから自分自身、少しは進んでこれたかな…。

今生きていられて日常生活が送れることに感謝して、自分ができることをひたすらやるしかないですね!

居場所活動で子どもたちへ配る飲み物やおやつの材料を買わせていただきます!