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観劇メモ:「Medicine メディスン」その2

昨夜、感想を書き散らかしたのですが(↓のnoteです)、まだまだ書けちゃいそうなので「その2」です。

観劇して気づいたことなど色々をつらつら綴ります。まとまりない&整理不十分な「My解釈」ですので、こんな風に感じた人もいるんだな~くらいに受け止めてください。
誰かの考察(ドラマ・映画・小説・漫画などで)を読んだときに「そうなんだ…!」って信じちゃう人・影響されやすい人は読まないでくださいね。観劇においては自分がどう感じたかをいちばん大切にするべきだと思いますので、私なんぞの感想文でご自身の貴重な思いを上書きしないでください。
私の感想や考察はあなたにとっての正解ではないです。しかし私にとっては正解で。こういう、人それぞれに感想や解釈があるところが演劇の魅力ですよね。…って、なんか話逸れたな(笑)
その2、いきます!

ここはどこ?

会場に入って舞台セットを見て、目に入るのは「CONGRATULATIONS!」と書かれた天井のバナー。文字があると読んでしまいますよね。
床は白いテープでラインが引かれていて、コートか何かのよう。線は途切れてグチャグチャですけれど。
卓球台もありますが、台の上はゴチャゴチャしています。下手方向にはベンチ、デスクとテーブルもあり、上手方向はパーティションされたブースがあります。
ここは何の部屋なんだ…?レクリエーションルームか何かかな?という印象。
でも、部屋の中にあるものは、遊んでいた残骸としては不自然です。コートの白線はテープがグチャグチャに丸まっていて中途半端だし(ここで本当に遊んでいたならそんなことにならないのでは…。コートのライン引きに失敗しとるがな…)、卓球台はパーティーテーブルのごとく上に物が乗っていてゴチャゴチャで「絶対に卓球はしてへんかったよな?!」状態です。

部屋の奥には扉があって、その向こうには廊下もありそう。その扉の上には謎のピクトグラム。走る体勢の「人」のマークと、下向き矢印「↓」、縦に長い「長方形」。この3つの図形の並び、正直馴染みがないのですが、「出口はここだよ」と示しているのかな。でも、よくある非常出口のマークじゃないのはなぜ?
「ピクトグラムがそこ(扉)に表示されている」ことは違和感なく見れるけれど、意味には確信が持てなくて妙な違和感を覚えました。私がピクトグラムに無知なだけでしょうか。「それっぽい図形だけれど、他人に意味は通じない」ものだとしたら、ここは誰かの虚構の空間ですね。

箱庭 舞台セット

ふと、バリータークを思い出しました。バリータークは密室で、壁の向こう(外)へ出るか・出ないか、二人の男が議論します。舞台装置は「壁」でした。
メディスンの舞台装置は「部屋」。どことなくバリータークと似ています。どちらも舞台が箱庭みたいなんです。箱庭の中に心理の物語(虚構)があって、私たち観客は外側から箱庭をじっと観察する……。
私が観劇したエンダ・ウォルシュ氏の戯曲はバリータークとメディスンの2作品のみですが、どちらも壁や部屋という物理的な建造物で空間の区切りを持たせ、その閉鎖空間内で人間の心理を劇で表現し、観ている者の胸に「何か」を残していく作品でした。
どちらも観劇された方には「あー、分かるかも」と共感いただけると思います。
バリータークしか観らてない方にはメディスンも薦めたいし、メディスンしか観られていない方にはバリータークも薦めたいので、マジでガチで再演して!(おたくの願い)

「ケース ジョン・ケイン」

デスクの上には台本(冊子)が置かれています。冒頭のシーンで、ジョンはこれを手にとって両手で大切そうに胸に抱きます。
初見でも、この仕草から「おや? これは何か大事なものなんだな?」と分かるのですが、ストーリーが展開していく中で、「ジョンが書いた台本(作品)」らしいことが分かります。
劇中劇(と言ってみます…)のストーリーで語られるのは、ジョン・ケインの人生。
この台本にどんな表題が付けられているのかが気になりすぎた私は、二回目の観劇にてオペラグラスを使って確認を試みました。見えたのは、文字が二行。センタリングでレイアウトされています。

case
John K……

スペルを「…」としているのは私の目&オペラグラスではハッキリと認識できなかったためです。が、これは認識できなくても想像できます。「ケース ジョン・ケイン」でしょう。
Xで「台本表紙の文字を見た人、教えてください~」と呟いたところ、「お察しの通り名前が書いてありましたよ」とリプを頂きました。(共有ありがとうございました!)

さて…この「case」はどう訳しましょうかね…。
ジョン・ケインの場合?
事例 ジョン・ケイン?
症例 ジョン・ケイン?

この台本は、ストーリー内ではページを破かれたり、数ページ飛ばされたり(省略されたり)、あまり尊重されてはいない扱いを受けるところがあります。「ケース ジョン・ケイン」という台本には、ジョン・ケインの人生が描かれているのですが。…しんどいね。

「ケース ジョン・ケイン」は、これまでにジョン(と他の役者さん)によって何度も繰り返し語られたようです。ジョンが言うには「ここに来られるのは年に一度」らしいですが、何回(何年)繰り返したんでしょう。
「ケース ジョン・ケイン」は、繰り返すうちにどんどん煮詰まり、原型が分からないくらいに脚色が加わっていったと思います。どこまでが事実で、どこからが妄想(脚色)なのか、境界は完全に失われています。
ジョンの精神状態からすると、確実に被害妄想が含まれています。特に、生まれた瞬間の記憶や台所の流しで洗われる1歳の記憶は怪しいです。0歳、病院のベッドで両親の会話を聞き取るのは不可能だし、退院するときの看護士の呼びかけ(言語)も理解できるはずがない。流しに放置されたときに「扉の向こうの母親を想像する」も1歳児に出来ることではありませんし、「流しから落ちたら泣き叫ぶことは分かっていた(台詞うろ覚えです)」という危険予知も1歳児にできるわけがない。
しかし、すべてが妄想というわけでもないと思います。両親から虐待を受けていたことと、13歳の出来事(セーラへの恋慕、フィリップの裏切り、服を脱げと脅されセーラのスカートを着させられたイジメ)や、19歳の崩壊は、おそらく事実をベースにして台本に描かれているのでは。

今はいつ?

舞台上の「今」について、時間帯も季節感もはっきりとした描写はないです。

壁に時計が掛かっていますけれど、長針短針とも動いてないですよね?私の座席位置から時刻は読めていません。
舞台セットとしての時計が動かないことは別に不思議でも何でもないですが、「動かない時計」はジョンの中で時が止まっていることを暗示しているようにも思えてくるから、あんまり深く考察なんてするもんじゃないですね。色んなものにやたらと意味を持たせようとしてしまう…(苦笑)。やりすぎには気をつけないと。世界って、そんなに複雑にはできてないですもんね。単純でもないけれど。

なお、劇中歌(?)では「September」が流れます。他に使用される歌は、あまり年月を歌ってないのでは。すべての歌詞を把握しているわけではないので自信ないです。
じゃあ「今」は9月なのか…というと、「September」は、12月に「9月21日の夜を覚えてる?」と問いかけている歌詞なので、Septemberの世界線(?)におけるNowは12月なんですよね。9月じゃない。
結局、舞台上のNowは不明です。

登場人物の年齢

登場人物の実年齢も不明です。
富山メアリー(区別するためにこう呼びますね)は、奈緒メアリー(同じく区別するためにこう呼びます)を「若そうね」と評しますが、奈緒メアリーは「そうでもないの」と答えます。その後、富山メアリーは奈緒メアリーに「あなた年はいくつなの?」と年齢を訊ね、奈緒メアリーは「演じる年齢は25歳~45歳」(台詞うろ覚えです。45じゃなくて40かもしれない…)と答え、実年齢を答えません。富山メアリーも「あら私もよ(同じ年代を演じているよ」と張り合う(?)ので、富山メアリーの実年齢も分かりません。

ジョンは、ジョンの物語の中で年齢の描写があります。
「0歳(生まれた瞬間)」、「1歳を迎えた」、「冗談が分かる年齢」、「13歳」、「19歳」と、0~19歳まではしっかりと場面ごとに年齢が明らかにされます。
一方で、19歳以降の場面では一貫して年齢が明かされません。バレリーに「いつから(どれくらい、だったかな…台詞うろ覚えです)ここにいるの?」と訊かれて、ジョンは「数えることは難しい」と答えています。
このことから、ジョンの人生は「19歳」が大きな変化点だと分かります。
ジョンのストーリー上では、19歳のとき、母親がマグダラのマリアを演じる時間が迫り、母親がマグダラのマリア(娼婦)として歌うことも、みんながそれを嘲笑していることにも耐えられなくて、「教会の一番後ろで赤ん坊のように叫んだ」、「自分の頭はずっと自分のものじゃなかった」、と語られています。内容からすると、19歳のこのときに心が限界値を超えてしまったと汲み取れます。(もっと直接的な表現をすると、心が壊れた、ですね。)(録音音声でリフレインする質問と回答の中には、「両親と村のお医者さん」がジョンへ「ここ」にいるように決めた、という内容があるので、精神疾患で入院させられているのでしょう。)

ちょっとSeptemberに戻りますが、母親がマグダラのマリアを演じるのは教会の「収穫祭」と言ってましたっけ?台詞覚えてないな~。でも普通の日曜とかじゃなく何かしらのイベントのタイミングだったような記憶が…。収穫祭だとしたら…秋…September…ですか…?
ほらほら、こうやってストーリー内に点を探しては、それらの点を強引に線で結ぼうとしてしまうから、あんまり深く考察なんてするもんじゃないんだよ!でも、それが楽しくてやってしまう…。
私は軽いノリで点と点を乱暴に結んで「繋がったかもー!」と1人でキャッキャ遊んでいるだけで、深刻に線を探してはいないので、真に受けないでほしいです。

19歳にフォーカスを戻します。
おそらく、ジョンが自認する年齢は「19歳+?」です。精神的には「19歳」で止まっているのかもしれません。
19歳以降のジョンは、実際には年齢を重ね、日々も重ねています(バレリーと過ごした日々は19歳以降の出来事です)が、ここに来てどれくらい経ったのか、録音音声やバレリーに問われてもジョンは一度も答えられていません。部屋にいると季節や一日の時の流れを感じないから、とジョンは話しており、年月が経過していることは理解していますが年月を認識できなくなっています。
ラストシーン直前に流れる音声(質問に受け答えするジョンの声)は老人の声です。「これはぼく?」と奈緒メアリーに訊ねる台詞は、実はすっかり老いているということを自認した瞬間だと思います。
私は、ジョンの実年齢については「老人」だと思っています。

作品を理解するには教養が必要・・・

ところで、私は「マグダラのマリア」と訊いて、具体的にイメージできるものを持ち合わせていませんでした。「マリア」と訊くと「イエスの母親」とイメージできるんですが、「マグダラのマリア」は「はて?」となってしまいます。完全に教養不足です…。
教養は、備えていればいるほど作品を深く認識できますから身につけておくべきですよね…。
ジョンに「マグダラのマリアは娼婦だった」と補足されて、「へー」と素直に受け取ったんですけど、補足されなかったら何のこっちゃ状態でした。

というか、「マリア」はイエスの母親ひとりだけだと思っていました。マグダラの「マリア」も存在するんですね。
マリアは二人いるのかぁ、知らなかったなぁ。
この作品にはメアリーが二人いるなぁ……。

一旦終わります

なんか延々と書けそうなんですけれど、生活があるので(社畜)、ここらで切り上げて睡眠を取ります。気が向いたら「その3」を書きます。

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