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すぐそばにいる大切な他人

【文字数:約1,100文字】

 前回の記事で書くことについて取り上げた。

 私にとってのwebは紙の日記に書くことの延長線にあり、2つの明確な違いは他者の存在だ。

 前回の記事でwebは、自分を相対化つまり客観視する姿勢が身につくと書いたけれど、言い換えるなら「自分という読者を獲得する」ということだと思う。

 だれでもアクセス可能なwebに公開している以上、他者からの閲覧数やスキといった反応がある。

 目に見える数字を伸ばそうとするのは自然なことで、そのために書いた内容を精査していくうち、「自分を見つめる別の自分」とでも呼ぶべきものが成長していく。

 例えば目の前に鏡があるとする。

 そこにいる平面の自分を他者として見るからこそ、髪を整えたり化粧をしたりするなどで自信を与え、自らを肯定したくなる。

 結果が評価されれば嬉しいのは当たり前だから、webが楽しいのは当然と言えるし、生きていると渇きがちな承認欲求も満たされる。

 前に活動していたweb小説の投稿サイトには、閲覧数や評価によってランキングが作られており、そこに自分の名前や作品が入ることは分かりやすい承認の形だろう。

 あらすじがタイトルに入っているような作品も、どうにか自作を埋もれさせまいと考えるからで、見た目はともかく理解はできる。

 他者からの反応を原動力にして好循環させられれば、それは創作の理想形に違いない。

 とはいえ他者の評価には限りがあるので、椅子とり合戦のような側面があることも否定できない。

 だれかの作品を読んでいるとすれば、その時間は別のだれかの作品を読めないことになる。嫌な表現をするなら、2つに分かれる道で選べるのは1つしかない。

 しかし自分という読者は決して離れず、すぐそばで自分を見ていてくれる。

 彼や彼女あるいはどちらでもない存在が、「よくできました」と言ってくれれば、少なくとも1人には評価されたことになる。

 10代前半から紙の日記を書いてきたのも、自分であって自分でない存在がいたからで、むしろwebの経験を得た今のほうが声を聞きやすいとさえ思う。

 もう1人の私が「これで本当にいいのかな」と自信がないから、何度も投稿前に読み返し、大丈夫だと安心させてやらねばならない。

 そうして育てた信頼が、思わず怯んでしまうような問いを投げさせる。

 何を求めて何を捨てるのか。

 自分が好きか嫌いか、どちらでもないのか。

 いつまで生きて、そして死ぬのか。

 だれにも気にかけられないときでさえ見捨ててくれない、お節介な自分と対話する手段。

 それが私にとっての日記であり、書くことを続けている理由なのかもしれない。


なかまに なりたそうに こちらをみている! なかまにしますか?