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「目標は作家デビュー」

【文字数:約2,600文字】

※ 本稿は2019年7月に発生した京都アニメーション放火殺人事件についてのエッセイです。

※ 本稿に記されているのは個人の見解であり、読了者(甲)は作者(乙)への意見陳述について、すべて甲の責任おいて行うものとします。

※ 前述の乙は甲について、必要があればサイト運営者(note株式会社)への相談を行い、法的措置を検討する場合があります。



 今から4年前の7月、webニュースでその事件を知った。

 おそらく名前を知らないヲタクはいない、あの京都アニメーションを何者かが襲撃して、多数の死傷者が出たらしい。

 ニュースを見て一番に浮かんだのは「なぜアニメ制作会社のスタジオなのか」という疑問だった。

 2022年7月に起きた安倍元首相の銃撃殺害事件は、犯行そのものに決して賛同はできないけれど、事件を起こすに至った動機については理解できなくもない。

 一方、アニメ制作を行うスタジオを襲撃したところで、いったい何が果たせるのだろうか。

 続報を見ていくと、あえて「被告」とする犯人が京都アニメーションに小説をパクられた、というのが犯行の動機だと知る。

 私がそれを知ったとき、どうにも言葉にしにくい感情が自分の内側で湧き出した。

 そんなことで、という否定や怒りだけではなく、それはツラい、などと同情する気持ちもあった。

 結局のところ被告の主張は言いがかりにしか思えず、何よりスタジオ襲撃にまで及ぶ動機とするのは、いささか無理があるだろう。


 被告は平和から遠い家庭環境に育ちながら、2009年に京都アニメーション制作の『涼宮ハルヒの憂鬱』に感銘を受けて小説を書き始めたそうだ。

 しかし2012年に強盗事件を起こし、出所の際のアンケートには「目標は作家デビュー」と記したとされる。

 その後も執筆を続け、2017年に京都アニメーションのコンクールに投稿するも落選し、それが犯行に至る動機として決定的なものになったらしい。

 小説を書き始めたとされる10年後、影響を受けた制作元のスタジオを襲撃するとは、さすがに想像していなかったはずだ。


 noteを含めて「将来は小説家になりたい」、「作家になるのが夢です」と語る人は多い。

 そうした人々すべてが被告のようになるとは思わないが、もし仮に自分の書いた小説を盗作されたなら、許せない、復讐してやると考えても不思議ではない。

 ずいぶん前の話になるけれど、とある公募の受賞作において盗作が判明し、受賞は取り消し、出版も立ち消えになる騒動があった。

 また、某投稿サイトにおいては先行する人気作品の設定は変えず、人名などの固有名詞だけを差し替えることで、あたかも自作であるように装う人間がいるらしい。

 投稿サイトの件は噂かもしれないけれど、物書きの端くれを自称する私からすれば、有名作の差し替えを「できなくもない」と思ってしまう。

 そんなことをしたところで何が楽しいのか分からない。

 しかし、もしも自分の作品を読まれたいだけなのであれば、他者の作品をパクるのは楽でコスパのいい方法なのかもしれない。


 良し悪しや好みかそうでないかが一瞬で分かるイラストに比べ、文字の集合体である小説を判断するのには時間がかかる。

 だからこそパクる行為が見逃されやすく、webに掲載した作品が知らず電子書籍で販売されていた、なんてこともあるらしい。

 とはいえ、イラストもパクる行為とは無関係でなく、先日にNURO光の広告で無断使用が発覚する事件があった。

 それは使用にあたって海外のサイトを利用したところ、作者の許諾を得ずに登録されていたのが原因だそうで、作者のあずかり知らぬところで、というのが共通している。

 今回の事件を起こした被告はコンクールに応募したので、だれでも閲覧や盗作のできる状態ではなかった。

 むしろ落選後、webに自ら投稿して評価を仰いだのであれば、それこそ残念ながら盗作の機会を与えたようなものだ。


 私とて自分の考えていたアイデアが、あるときに読んだ作品で使われていたことがあり、怒りや悔しさといったネガティブなものではないけれど、何とも言えない感情が湧いたと記憶している。

 それは接点のない場合だけれども、被告の場合はコンクールに投稿したことで接点が生まれてしまった。

 作品を読んでもらうというのは同時に、作品をパクられる可能性があるからと、公募の応募作について下読みを拒否する人がいる。

 他者からの意見は欲しい、でも公開すればパクられるかもしれない、というのは文字書きにとって解決できないジレンマだ。

 ある程度の諦めを会得すれば「そういうもの」と流せるけれど、何も感じないわけでもないし、そもそも作品への思い入れには個人差があるわけで。

 被告にとって投稿作は「金字塔」だったらしく、相当な思い入れがあったに違いない。

 だからといって犯行の動機とするのは、やはり無理があるように思えてならない。


 被告には一切の同情ができないけれども、8年にわたり小説家の夢を追い続けた1人の創作者として見るならば、雫1滴くらいの憐憫は浮かんでくる。

 だからなのか、運命が違えば私も被告のようになっていたかもしれないと、たまに想像する。

 2008年に起きた、秋葉原の通り魔殺傷事件の元死刑囚についても同様で、自分から完全には切り離せない。

 どうしようもない憤りを感じたとき、発散するための代替手段もなく、社会的に失うものがない、いわゆる「無敵の人」であるなら犯行は正当化されてしまう。

 私もまた一時期は無敵の人だったし、これからの運命によっては逆戻りする可能性が十分にある。

 しかし一般の人だって、それは同じなのだ。

 2019年に東池袋で起きた、自動車暴走事故によって妻子を喪った人は加害者を「 してやりたい」と思ったに違いない。

 私もまた交通事故で友人を喪ったから、その仮説には根拠がある。

 その憤りが向かう先によっては、あるいは、と考えたことが何度もある。

 だから被告を宇宙人のように別の存在として捉えるのではなく、もしかしたらの想像力を働かせて欲しい。


 今回の事件は先日の9/5に初公判となり、判決は来年1/25だそうな。

 これからも裁判の推移について、1人の創作者、かつての無敵の人、ヲタクの端くれとして、ひそかに見守りたいと思う。


注:事件の詳細については朝日新聞2023年 9/6 朝刊、および同 9/7 朝刊を参考にした。

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