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webの衝立岩に挑んで自分を試せ

【文字数:約2,700文字】
お題 : #読書の秋2022 #クライマーズ・ハイ


 横山秀夫『クライマーズ・ハイ』は1985年の夏に起きた、日本航空123便の墜落事故を扱っており、その事故を新聞の記事にする全権デスク、悠木和雅ゆうきかずまさの物語だ。

 今年は事故から37年が経ち、当時を知らない世代が増えた点では先の戦争 と近く思えるけれど、遺族や関係者にとっては今なお続く出来事に違いない。

 とはいえ、主人公の悠木は現場となった御巣鷹山に足を運び、捜索に参加したのでもなければ自身で取材をしたわけでもなく、現場の記者などから届いた情報を整理および精査して、北関東新聞の紙面を作る1人の会社員に過ぎない。

 現場に通って靴をすり減らす記者と比べれば、夏の群馬でエアコンの効いた社内にいる悠木は、ずいぶんと楽をしているように思える。

 だが新聞は会社の名前で作る製品であり、販売部数によっては会社が傾き、誤った情報を紙面にすれば新たな被害者を生むかもしれない。

 そのために作中では締切の間際、日付を越えるまで現場記者からの続報を待ち続け、そのせいで販売局長の伊東と次のようなやり取りが起きる。

「早く版を降ろせない時もあります」
「楽しんで作ってるからだろう」
「楽しむ……? どういう意味です?」
「俺たちにはそう見えるんだよ。大勢が眉間に皺を寄せて深刻ぶってやってるが、所詮はニュースをこねくり回して楽しんでるだけのことだ。締切時間が近づけば近づくほどゾクゾクしてくる。そういうことなんじゃないのか」

297頁

 悠木たち編集の作ったツケが全部回ってくるのだと続き、売り言葉に買い言葉で口論へと発展する。編集方針をめぐっては上司や社長ともやり合い、20頁に1度は誰かが怒鳴っているのではと思うほどだ。


 そうした殺伐とした空気を吹き飛ばしてくれるのは、事件発生から17年が経った「現在」において、果たせなかった安西耿一郎あんざいきょういちろうとの約束を実現するべく、「魔の山」と呼ばれる谷川岳の岸壁、衝立ついたて岩への挑戦だ。

 その場所について、次のように表現されている。

「ワースト・オブ・ワースト」──最悪の中の最悪。それこそが衝立岩に与えられた最後の異名だった。

7頁

 事故で飛行機に乗っていた520人が犠牲となり、それを記事にするべく奮闘した17年後、57歳の悠木は779人が遭難死した山を目指す。

 もしや事故の全権デスクとは仮の姿で、過去に数々の山を制覇してきた山屋なのかと思いきや、全然まったくそんなことはなかった。

 山屋なのは安西のほうで、体と心の距離をいつの間にか近づけてくるので、まるで太陽が人の姿をして歩いているような印象を受けた。

 私の父が山屋だったので彼らには安西のような太陽型と、愛想はないけれど人嫌いというわけでもない月型の2種類がいるのだと思う。

 おそらく悠木は月型で、安西に誘われるまま山に行って好きになり、「登ろう会」なるものにまで所属していた。そして17年前の夏、安西&悠木のバディ伝説が始まるかに思えたところで、日航機の墜落事故が起こった。

 本作は全権デスクとなった悠木の奮闘が主軸になってはいるものの、共に衝立岩を登るはずだった安西の謎が絡まり、山霧のように物語の結末を隠している。

 見えない高みを探しているのか、毎日のように日付を越えて紙面の編集に取り組む悠木は、一般的な感覚からすると異常に思える。

 けれど全権デスクの重責がアクセルに変わり、上司などと激しくぶつかり合いながら突き進む姿を見るうち、読者もそれを異常だとは思わなくなってしまう。

 それでも読者は山を駆け登るように、あるいは山を転げ落ちるように次々と頁を進めてしまい、やがて題名となっている「クライマーズ・ハイ」の状態になっているだろう。

 クライマーズ・ハイについて、安西は次のように説明している。

「興奮状態が極限にまで達しちゃってさ、恐怖感とかがマヒしちゃうんだ」

29頁


 昨今では新聞の購読数が減り続け、地球環境のために不要とする声さえ見聞きするけれど、当時は情報メディアとしての存在感があった。

 それは作中において頻繁に「ポケベル」が登場し、反対に「スマートフォン」が登場しない時代であることが関係している。

 もはや「ポケベル」が何か分からない可能性もあるけれど、悠木と同期入社の政治部、岸との次のやり取りから、当時の状況が察せられるのではないだろか。

 岸が無線機のカタログを突き出した。
「モトローラ社のになりそうなんだけどな」
「どうせ入れるのなら携帯電話のほうがいいんじゃないのか。日テレの真田が自慢してたぜ」
「ああ、あの馬鹿でかいやつだろ? ダメダメ、使えないよ。荷物になるし、バッテリーが二、三時間しか持たないんだ」

20-21頁

 作中において具体的な機種名は出ないものの、1985年当時は携帯電話が形になり始めた頃であり、そのため持ち運ぶには不便な重さと大きさで、決して「スマート」ではなかった。

 様々な情報を映す画面などあるはずもなく、パソコンさえ一般的でないからwebも同じくで、それ故に新聞はテレビやラジオと並び、情報メディアとしての存在感があった。

 だからといって本作は昔を懐かしむ作品ではなく、主要メディアだからこその重責を背負った悠木が悩み、怒鳴り、知略を働かせる奮闘記となっている。

 作中において事件の真相に迫る情報、いわゆる特ダネを掲載する機会を得た悠木は、興奮を覚えると共に「これは真実だろうか」と煩悶する。

 もしも美味しそうな特ダネを前にした悠木と自分が同じ状況になったとして、興奮の極限にあるクライマーズ・ハイだったのなら、冷静な判断ができずに危険な状態へと急降下、最悪は墜落するかもしれない。

 今現在、webには数多くの情報が瞬時に飛び交い、その発信者は私のような企業に属さない個人であることも多い。

 個人が発信しやすくなったのは間違いなく進歩といえるけれど、一方で勘違いによるデマ情報が拡散しやすくなり、意図して嘘を本当のように語るフェイクニュースが現れた。

 おおげさな言い方をすれば会社を背負う悠木と、書き換え可能なハンドルネームを背負う私とでは、その肩にかかる責任は前者が圧倒的に重い。

 私からすれば関心のない政治家への配慮を考える場面もあり、徹夜続きの悠木の胃に穴が空くのではと心配した。

 翻って、私をふくめた個人が彼のような責任感を宿しているかといえば、おそらく大多数が持ち合わせていないように思う。

 だからこそ悠木と自分とを重ね合わせることで、私はwebにおける衝立岩に挑んだような気がしたのだった。


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