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キャンプの嫌いなソロキャンパー

【文字数:約4,100文字】
お題:#創作大賞2023、#エッセイ部門


 物件を紹介するサイトにて、次のような条件で探したとする。 

 敷金礼金なし
 家具のレイアウト自由
 日当たり良好
 ペット可
 庭つき
 
 当然お高いのだろうと思いきや、広さからすれば格安の物件に違いない。ただし続く条件には厳しいものが並ぶ。
 
 電気ガスなし
 水道別
 最寄り駅より徒歩4時間
 野生動物との遭遇あり
 雨天時は災害に注意
 
 それがキャンプだ。


 キャンプ場の朝は早い。

 季節や場所にもよるけれど、空が白み始めるのと同時に鳥たちが鳴き始め、さながら都心を貫くスクランブル交差点のように騒がしい。

 アクセスも良く設備の整った人気のキャンプ場では、炊事場などでの混雑が起きて種類の違う喧騒が続く。

 調理に使った薪や炭はもちろん、仮の住まいとなったテントを片付け、借家の流儀を思い浮かべながら原状回復に努めると、いつのまにか太陽は高くなっている。

 本来なら固定された家の機能を持ち運ぶのだから当然かもしれない。

 コテージや道具のレンタルを利用するとか、半分ホテルのグランピングであれば面倒は少なく、屋外型アミューズメントの一種と認識している。

 準備と片付けの負担を軽くすることで近年とくに楽しみやすくなった一方、わざわざ不便を味わいに行くという根本的な矛盾を秘めている。

 人により様々な解釈があるけれど、おおむね共通しているのは人工的な都市から離れ、森林や河川といった自然の中でテントを張ったり、あるいはコテージを利用したりしながら過ごすのを「キャンプ」と呼ぶ。

 自宅の庭やベランダを利用する「おうちキャンプ」なるものも近年あるそうで、発想により遊び方は無限大ということなのかもしれない。

 かくいう私は野外に出ていく派ながら、出かける度に「なんで来ているのだろう」と悩む瞬間がわりとある。


 とかくキャンプは面倒な趣味だ。

 炊事に使うガス缶など各種の燃料はもちろん、仮の住まいとなるテントに寝るためのシェラフなど、快適さを求めるほど荷物は増え続け、比例して運ぶ手間と片付ける苦労が増大する。

 使いっぱなしにした道具を放置するとサビやカビが発生し、本来なら得られるはずの満足感は減少していく。

 テントを固定する金属製のペグを使わず、周辺に転がっている石や枝を使うようになったのも片付けが面倒だからで、ある人には「原始人みたい」と言われた。

 そうした壁に毎度ぶち当たりながら、なぜかキャンプを楽しいと思っている。

 もしや自然の空気を吸わねばならない依存症で、限界を超えると発狂してキングコング先輩のように電柱を登り出すのだろうか。

 子供の頃の私は外で遊ばず、本を読んだりゲームをしたりするインドア派で、むしろキャンプを嫌っていた節すらあるというのに。

 

 母方の祖父母は絵巻物に載っていそうな家に住む農家だった。自前の田畑で米や野菜を作り、昔はニワトリを飼っていたと記憶している。

 2022年に農林水産省が発表したカロリーベースの食料自給率は38%とのことで、それよりも高い割合で自給自足できていたであろう祖父母からすれば、キャンプなど何が楽しいか分からないと首をひねるに違いない。

 そんな祖父母の家に行った私の記憶は、ただただ楽しかった思い出として残っている。

 トイレと風呂場が母屋と離れているし、柱や梁の存在感が強すぎる家は現代文明を拒絶する。

 さすがにテレビや冷蔵庫などはあるけれど、台所の籠はキュウリやナスであふれ、自家製の味噌で作った味噌汁は美味しくなかった。

 それでも私は帰りたくないと泣いたそうで、嬉し寂しい祖父母も泣いたというから、昔から自然に親しむことを好む人間ではあったのかもしれない。

 ただ、人間のための住みやすい都市から離れて自然を体感しにいくのは、ふたたび都市へと帰るのが前提にあるからこそ成り立つ。

 都市暮らしにとっての非日常は山里暮らしにとっての日常であり、一瞬の不便が楽しくても永遠に続くなら誰しも嫌になるだろう。

 幼い私は里帰りで祖父母の家を訪れたわけで、それは期限の切られた遊戯だ。夏休みは終わるから休みなのであり、例え話としての移住は現実的な数多くの壁によって阻まれる。

 人間の人間による人間のための都市は、やはり住みやすさの点で優れている。

 とくに文明レベルが江戸時代のトイレは、慣れても選べるなら現代のものがいいに決まっている。

 

 山登りを趣味としていた父にとって、泊りがけでの登山や尾根伝いに山を歩く縦走をこなすため、キャンプは必須だった。

 そんな人間にとっては町より山のほうが呼吸しやすいのだろう。

 休日には遊園地ではなくキャンプに行くのが当たり前で、日帰りのできる低山なら一緒に登らされたけれど、子供の私にとって拒否権があるはずもなく。

 普段は目にしないものに触れることができて、それなりに面白いとは思っていた。

 でも今ほど楽しめていたわけではなかったと記憶しているし、体力のない子供にとって登山は苦行でしかなく、自分から希望したことは一度もない。

 成長するにつれ父との距離も変わり、一緒にキャンプをすることもなくなって、「そんなことが昔あったね」と思い出すだけになると予想していた。

 実際はバイクに荷物を積みこんで気ままなソロキャンパーをしているなんて、本を読んだりゲームをしたりするばかりだった子供の私には、決して想像できなかったはずだ。

 そもそも不良の乗り物というイメージだったバイクに乗ること自体、学校が嫌いでも皆勤賞だった人間とは結びつかない。 


 私にとっての学校は忌むべき場所だった。

 決められた時間に授業を受け、定期的にテストで成果を出すよう求められる。教室という水槽の中で浮いた存在になると心配されるのに、反対に目立ち過ぎれば疎まれる。

 それでも学校の他に居場所はなく、空気の薄さに水面で口を開ける金魚のように生きていた。

 キャンプブームと呼ばれる流れに乗っかる可能性もあり得たけれど、私が自主的にキャンプをするようになったのは必要に迫られたからに過ぎない。

 押し出されるようにして社会へ出たのはいいけれど、やがて私は「ひきこもり」になった。

 そんなあるとき、旅に出たいと思い立つ。

 体と心を休めるための家は次第に動物園の檻となり、運動不足で弱った足が床に沈んでいく夢を見た。

 このままではいけない。

 命の危険がなくとも社会における死が迫り、急き立てられるようにして外へ出る。

 理由は何でもよくて、とにかく家から離れたかった。自分の形をしたベッドの表面が崩れ、鼻の奥から淀んだ香りが消えることを願った。

 いわゆる自分探しのために旅へ出たのではなく、私は自分を切り離すために旅へ出た。

 お金に余裕があるわけでもないから消去法で野営、つまりテントを使った野良キャンプを選択し、必然的に多くなる荷物の積みこみで失敗する。

 慣れない始めの頃は移動中にテントを落とし、うかつな自分がますます嫌いになった。

 ひきこもるくらいだから自信はなく、就職活動で何度も口にする「私は〇〇な人間です」の定型句は擦り切れて、もはや声にするのも億劫になっていた。

 何日か慣れ親しんだ姿と場所で落ちこんだけれど、それでもまた挑戦しようと諦めなかった自分を褒めたい。

 たぶん真相は諦められなかったのではなく、もう後がないと絶望していたのだろうけれど。

 手痛い失敗から計画や装備を練り直し、できる限り長く、遠くを目指して北の果てに辿り着き、やっと私は過去を沈めることができたような気がする。

 

 野良キャンプの朝は早い。

 周辺の住民から不審者として通報されないために夜に紛れ、まるで存在していなかったように朝早く撤収するのが望ましい。

 ときには先住者のホームレスと呼ばれる人たちがいたけれど、光あるところには影もできるわけで、彼らの排除されない場所は過ごしやすく感じた。

 それが華やかな観光地を眺められる絶好のポイントであれば、むしろホテルなどに宿泊するより贅沢かもしれない。

 高屋奈月『フルーツバスケット』では親類との仲が良くなくて、物語の序盤において森でテント暮らしをする高校生が主人公だったけれど、川で顔を洗う姿が爽やかな朝を演出していた。

 とはいえ、私有地や公共の場所を占拠するのは褒められた行為ではない。

 退去を命じられても仕方がないし、とある場所では黙認されていた野営が正式に禁じられた。宿泊利用もせず景観を損なうばかりとなれば無理からぬ話だろう。 

 

 ひきこもりから脱するための旅でキャンプをしていた私は、なぜか今もそれを続けている。

 必要だったからやっていたに過ぎないものが、反対に目的となっているのは奇妙だけれども、あの頃とは異なる理由があるためだ。

 先日に行った山の中にあるキャンプ場からほど近い、とある湖畔の岸辺でそれを強く意識することになった。

 近くに集落や道路沿いの街灯がなく、光るものは対岸にある別のキャンプ場のみ。

 月も出ておらず闇に近い場所に立っていると、あの頃にいた暗い部屋へと続いているような気がして、自分の内側が泡立ち始める。

 抜けきったはずの炭酸が境界となる骨と肉に阻まれ、ふたたび戻っていくような感覚は不快でなく、むしろ心は落ち着いた。

 過去を消すことはできないから、どうにか自分の中で折り合いをつけるしかない。私の一部は今もあの部屋にあり、沈めても浮き上がろうとする死体のように存在を主張する。

 焼けつくような焦りがあったから現在どうにか生きているわけで、人工的な光と音にあふれた都市では、過去の残像を正しく見つめることはできず、内側から発せられる泡の嘆きは掻き消されてしまうだろう。


 これからも私はキャンプに行く。

 面倒くささを感じているのは、形を変えた自傷行為のようだ。

 けれども傷みの数に比例して思い出もまた増えていく。

 鍋についた焦げ色が料理の腕を引き立て、生地の薄くなったテントは訪れた場所を夢に誘う。

 荷物を運ぶバイクは移り変わる景色の中にあり、やがて寿命の尽きた後にも走り続ける。

 都市にない静かな暗闇を求めて、私はまた排気音の先へと走り出す。



なかまに なりたそうに こちらをみている! なかまにしますか?