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他人の人生を清く正しく美しくさせようとしてないかい?

どーも。林田です。

毎年、年度末になると鬼のような業務量に加え、必ず体調を崩すというルーティーンを繰り返しております。(今年は謎の咳が1ヶ月以上続いてるよ。今週病院に行ってみる!) 

喋ったり、冷たい空気吸い込むと咳が出るので、stand fmもしばらくお休みしてます。

さて
今回は「我々支援者は、他人の人生を清く正しく美しくさせようとしてないかい?」というテーマでお話しします。

突然ですが、愚行権という言葉をご存知ですか?

僕が意思決定支援の勉強してる時に、聞いた表現なのですが、簡単にいうと、愚行とは「他人から見ていくら愚かに見える行為」であり、その権利というのは、「誰にも迷惑をかけていない限り、自己決定に委ねられるべき」ものとされています。

たとえば、喫煙、飲酒、治療拒否などがそれに当たりますね。

僕たちは支援者である前に、1人の権利を持つ成人(大人)。自己の決定権を持っていますし、愚行な行いだってします。僕なんかも、昼飯に豚骨ラーメン食べて、替え玉すると、夕飯が必ず入らないって、もう50回以上、体験して理解しているのに、「替え玉1つ」を頼んじゃう。二日酔いだってそう。

思い出巡らせば、皆さんも思い当たるんじゃないです?↓


ダラダラと過ごす夜もあっていいし、選んでも選ばなくてもいい。それくらい自己決定権ってあるはずなんです。


ところがどっこい、急に難しくなるのが、認知症や知的障害や精神障害の方など、医学的に認知機能の低下や遅れがある場合の支援。 

選択できるような合理的配慮や説明を行い、表明した意思や推定される意思を汲み取って、支援を組み立てていかなくてはならないんです。


表明した意思の正誤を審判する要素は、支援者の役割には含まれておらず、(生命や財産を守るべき事案は除く)失敗や挫折が見て取れるケースもあると思います。

同質化しやすい環境である入所施設は、ことさらこういうのが、超絶苦手。皆んなと同じ時間を強いられるため、規則正しく、マナーを守っての生活が標準化されます。そこには、ダラダラ、何もしないの選択肢がなくなってしまいます。

説明の段階で、正誤の正論だけでは、愚行の権利行使は保障されず、生き方を強いるほかならない。

とても難しいんです。愚行権の保障って。僕たち支援者は、愚行権があるという認識をしながら、意思が表明できる環境を整えつつ、失敗も共に伴走していくなかで、分担していけばいいんじゃないのかなと思っています。

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