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共感から入るスタンスの良し悪しと、本音を確かめることの喜び

最近自分がコミュニケーションをするうえで誰の方を向いて話しているかでいうと、「自分」「自分と他人の間」「他人」で軸を設けるとしたら、「やや他人」とかになるのかなと思う。

コミュニケーションにおいて共感が先行している。言いたいことを言うことよりも、うんうんそうなんですね、が勝る場面が多い。

もちろんそれにより享受しているメリットもある。ほとんど全ての人が「自分の話をちゃんと聞いてもらうことは好き」で、少なくとも「話を聞いてもらって不快に思う」人は少数派なので、聞く・共感するが先行していると、とりあえず目の前の人が喜んでいたり落ち着いてくれていたりする(ように見える)ことは多い。

そうするとどうなるかというと、相手も自分に優しい態度を比較的とってくれやすくなるので、結果的に自分の受けるストレスやダメージの総量が減って、なんとなくラクに過ごせる。
これがメリット。

けど当然デメリットもある。
それは単純に「言いたいことを言えていない状況に満足できておらず、つらい」とかが挙げられると思う。(より厳密にいうと、「言いたいことを言う頻度や、程度に満足いっていない」みたいな言い方になるかもしれない)。

付和雷同することが多いということは、つまり自分の思いや考えを、ストレートに言える場面がそんなに多くないということ。それに対して自分は不満を感じており、その不満が少しずつ溜まってきていて、つらい。そういうあれだなーと思う。
そういうことを最近よく考える。

考えているのだけど、でも一方こういうことも考えている。

その「コミュニケーションにおいて共感から入ることが多い」スタンスに対して、本当に不満ってそこまで大きいのだろうか?これは修正する必要のあることなのだろうか?ということ。

もしかすると無理にそう思おうとしている可能性もあるから、なんともいえないところではあるけど、やはり上に書いた「共感の姿勢から入ることにより得られるメリット」は結構大きい。

自分は「そうすることで自分の人生が生きやすくなるか?」という基準のもと何か選択をすることが多いので、共感のリターンはとても捨て難い。

たとえば、上に書いたデメリット以外にも、「一見うまくいっている風なコミュニケーションになっていることが多く、仕事において状況を前に進めたり、リスクを前もって指摘したりすることに貢献できていない」という事態が仮に職場において起こっていたとしても、実際捨て難い。


じゃあ、共感が先行している今の姿勢を続ければいいね、という話なのだけれど、とはいってもなんだかんだやっぱり迷う。

さっきも、久しぶりに知り合いの人とオンラインで話していたのだけれど、たまたま共感先行ではなく、安易に相手の話すことに同意をしないスタンスでなんやかんやとコミュニケーションを取っていたら、自分の体の中になにかひりつくような感覚を感じた。

このひりつきは、「自分は今実際どう思っているのかを、慎重に確かめることの怖さと喜び」から来たのだと思う。

「自分ってこう思ってるんだ/感じてるんだ」ということを確認することは、どうしても初めは少し怖く、おそるおそる触ってみるというスタンスになるけれど、やはりそれを知れると、シンプルに、そして強くうれしい。なんかよく分からんけど、うれしい。

それを「生の実感」と呼んでも差し支えないだろうなと思う。

この「本音を確かめる喜び」を知っている、あるいはこうしてたまに思い出すからこそ、自分の思いの現在地を見えづらくさせる「共感から入る姿勢」にはもやつきを隠せないのかもしれない。

でも、そっちの良さもほんとにあるんだよなー。

結論、わからん。

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