見出し画像

くれは神社✨🧵

大阪府池田市に伝わる、
呉から渡来した織工女
くれはとり・あやはとり伝承。

こちらの呉服神社には
呉服(くれは)大神が祀られています。

以前紹介した伊居太神社には妹の穴織(あやは)大神が祀られています。

この二人を連れてきたのが
猪名津彦命阿智使主あちのおみ)さん。

御祭神
呉服大明神
仁徳天皇

境内は明るくて赤が目を惹きます。
西国七福神の恵比寿さまはこちらに✨
弁財天さまと大黒様は箕面におられました。布袋さまは宝塚の清荒神に☺️
屋根やガラスの絵に糸巻きの絵柄が描かれています✨🧵
こんにちは✨🧵
鳥は呉織と漢織(くれは・あやは)なのかな?
くれはとり、あやはとり
はとりは機織りから来ているそうです。
漢字では呉服、呉織、穴織、漢織など
いろんな表記が見られます。
呉羽の里、綾羽町など地名にもなっています。
 祓戸伊吹の神

 猿田彦神
 国常立神 
 素戔嗚命
大国主
大物主
 市杵島姫
天照皇大神 豊受大神
菅原道真公
姫室
伊居太神社には梅室がある。
ここには和柄が合うと思って連れてきました✨👘
🌟おりおんショップさん👆🌟

猫目橙 橙色がかわいい🍊☺️


由緒には2人の織姫は昼夜怠りなく機織りをなさっていたと書かれ、星の宮社では星がふたりの手元を明るく照らし、その光で機織をしたと伝わります。

機織りが好きだったら、ずーっと編んでいられるのかな‥139歳になるまで
生まれた土地を離れて。

応神天皇、仁徳天皇を追うと渡来人との関わりが深い。ように見えるけど、
もっとずっと昔から今に至るまで、
行き来して関わり合い、その土地に人や文化にとなり馴染んでるんだろうなぁと思いました✨

呉くれ、綾、阿智、猪名いな、織物‥

最近気になるワードを検索してはしだいに何を探してるかわからなくなる、
を繰り返しています☺️

養蚕や織物が盛んな地を追えば、
また繋がりが見えてくるかなぁ👘

以下由緒は伊居太神社、猪名津彦神社と内容重複しておりますが、少しずつ違うので置いておきます😌

呉服神社御縁起

大阪府呉服里池田市にかしこく鎮座まします。日本最初の繊維の祖神呉服大神のご由緒を申し述べます。
人皇第十五代応神天皇の御代に猪名津彦命を中国のの国に遣わし機織裁縫の工匠をお需めになりました。
その時久礼波・久礼志の二人を案内役として呉の国に赴き呉王に乞うて呉服・綾織・兄媛・弟媛の4人を伴い渡来することとなりました。帰路九州の筑紫潟に着きましたが兄媛は胸形明神のお望みにてこの地に留まりになり他の媛は摂津の国武庫の浦に着きましたので、猪名の港(唐船が淵)に織り殿を建て呉服媛をお迎えいたしました。
呉服の神女は昼夜怠りなく布帛を織り少しも倦み給ふことがなかったと申します。この時より機織裁縫染色の技術が我が国に伝わり男女寒暑の服装の別が定まりました。尚四季には上妙の衣服を天子に献じ下は万民に施されました。
仁徳天皇の七十六年(385)九月十八日に呉服の大神は御齢百三十九歳という人生に倍する御長寿をもってお隠れになりそのご遺体を今に跡を残す梅室、姫室にお納め申し上げました。
その翌年に仁徳天皇が勅令を以て御神祠をお建てになりました。
この大神が糸を様々にお染めわけになったところを染殿井、その糸を掛け晒しになりましたところを絹掛松と名付け今も跡が残っています。
大神の御託宣に「我は衣服の神となり人して寒暑の憂なく養蚕機織絹布裁縫の道を守護し且つ船路遥かにこの日本に帰化せし故海上の難おも無からしめん」とあります。代々の帝殊に御崇敬篤く、円通天皇御代には鎮守府将軍源満仲公が社祠を修復、又下って御陽成天皇の御代には豊臣秀頼公が片桐且元を奉公に命じて再建のことがあり文政二年には有栖川宮殿下の御祈願所となりました。
因みに呉服大明神の御名は後醍醐天皇より賜りました。御宸翰より起こり又これにより我が国にて絹布のたぐいすべて呉服ごふくと称することとなりました。省みますに五穀を作るすべを授け万民に飢餓の憂のないことは天照大神の御神徳であるに等しく、機織裁縫の道を教えて寒暑の憂なきはこの神の御神徳に他ならずと信じます。この故をもって、衣服の業にならいその産物の商うものはおしなべてその祖神たる呉服大神を崇敬すべきことは論をもたぬことであり古来より健康長寿家業繁栄、文化経済、手芸上達の御神徳があると言われています。
また来ます〜✨🧵  


最後まで見ていただきありがとうございます💛🙇‍♀️

↑妹の穴織(あやは)大神が祀られる
伊居太神社。

↑2織媛を呉から連れてきた猪名津彦命(阿智使主)が祀られる神社。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?