見出し画像

呉から来た機織りの神様

 階段を登って、鳥居をくぐり50mくらいの参道を歩いた先にこの門がある
左手前には猪名津彦神社
穴織宮伊居太神社の由来
(あやはいけだじんじゃ)
人皇十六代応神天皇二十年巳酉秋九月
日本国に漢の直太祖後漢の靈帝4代の孫阿知使主(あちのおみ)、都加使主(つかのおみ)十七県の部下と帰化した。
そこで天皇の三十七年丙寅春二月天皇思召して天下人民裁縫の術を知らず
春夏秋冬の衣服が作れなかった 
今呉国には立派な縫工女と聞き勅使として阿知使主(あちのおみ)、都加使主(つかのおみ)に命じて呉国に縫工女を求めようと考えられた。二人は勅使となって呉国に出発した まず高麗国に渡ったけれどそれから先呉国への道を知らなかったので高麗王に願い久禮波・久禮志の二人を道案内に選んでいただき事故もなく到着した。
呉王は工女兄媛、弟媛、呉織、漢織の四人の婦女を興へられた。今の世に呉をくれと読むのは道案内の久禮波・久禮志の名をかたどったものである。
二人の功績を忘れないためである。
同天皇四十一年春二月、阿知使主らは
呉より筑紫へ帰り着いた時に胸形の大神が工女達を乞われたので兄媛を差し上げられた。残り三人の工女を連れて津の国に帰着し以来呉衣縫、蚊屋(あや)衣縫と云はれている由因はこれである。呉織は呉の人であり漢織は漢の人である。
この2人は呉服の地に居住されたけれども弟媛はどこに居られたがあきらかでない。二十二代雄略天皇の時代にも呉織、漢織、兄媛、弟媛が来日しているけれどこれは職名であり異人である。
応神天皇の時代の前から衣服裁縫の技が明らかでなかったこの二媛の教えにより天下の婦女が裁縫の術、機織りの術を教えられ四季の衣春秋の衣服上下服装を教えられた その効により天皇は宮中に縫殿寮を設け縫部司縫女部を設け二女を祀られたのである。
棉麻を紡ぎ蚕を飼い桑の皮をつむぎ麻の皮から織物を作っていたのであるが
二媛の教えにより呉織蜀錦等綾錦崎の衣服ができるようになったのである
呉服尺、呉竹、呉藍、生姜等この時に持ち帰れるもので呉橋、牙成等この頃に呉国から我国に入り呉国の文化が広まった。ニ媛は一室にこもり、その身に光明がありひたすらに機織と裁縫に従事され百余歳の高令まで我国の文化の興隆に貢献されこの地に絹かけの松、染殿井、絹の里、等の地名が残るのも当然のことと思はれる このニ媛が他界されたので
仁徳天皇は七十六年九月十八日に衣服裁縫の功績を称えるため社を建立し両媛の功績をたたへ降世までその功を忘れないように残され世の人々は文化発祥の神として代々お祀りをつづけたのであります。

と、由緒に書いてあります。

呉から機織りの技術をもたらすために
4人の織工女を連れてきて、兄媛は筑紫の胸形の地へ。呉織と漢織は池田の地で(西宮付近でも伝説がある😌)
生涯にわたって機織り、裁縫の技術において貢献されたそう🙏

2人の媛は池田の地で、呉織くれは
穴織あやはと呼ばれ呉服神社、伊居太神社に祀られています。

むかしむかし、遠くからはるばる、ありがたいことです。
織媛本人の感想などは今となっては知れないけれど、見知らぬ地できっと苦労も大変なこともあっただろうし‥
その技術功績は日本に生き継いでることでしょう。

MADE IN JAPANへの憧れもありつつ、現在もいろんな国の工場で作られた服にお世話になっています。

技術も人も昔むかしから行き来し、
世界は繋がってるのですね🫶

この神社は歴史が古く、古地図にも描かれています。1番賑わうであろう正月に詣ったことはなく、私が行く時は1人‥か2人。
階段から長い参道を通り、
ここは時間が止まったような異空間にいる感覚になります。


機織り、織、呉服、呉くれ、呉媛、応神天皇、秦、秦氏、古墳 が関連していそうで、その地域は他にもあるようです。

たくさんの渡来人がいろんな技術を持って日本各地に参られた時期なのかな?

兵庫県西宮 呉織穴織伝承 織媛大明神

福岡県田川郡香春町鏡山 呉姫の墓
(4人のうち宗像に残られた兄媛と
  思われる)

滋賀県近江市蒲生 呉姫神社

富山県 呉羽丘陵 姉倉比売神社

鹿児島県 蒲生八幡神社 
       摂社 宇礼姫、九礼姫 


繋いで行ったら楽しそうです👘☺️ ワクワク 

最後までありがとうございました💛😌


#織姫伝承
#くれはあやは
#機織 、織物
#応神天皇
#繋がる



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?