子供と作る砂曼荼羅
娘とは、よく遊んだ。
今振り返れば、やっぱり気力体力があったなと思う。
360日ワンオペで、
たまの休みはハイキングだキャンプだパーティーだも行きつつ
何もなければともかく外で遊ばせようと、
公園にはあちこち行った。
食洗機も乾燥機もない昭和スタイルな生活の中で、よくやってたな、私。
「お砂のケーキ」は自然発生的に生まれた私達のあそびで、
公園内にある植物の葉や花や実をあしらうのがルール。
これを作ってると、周りにどんどん見物の子供達が増えてくるので、いつしか一緒に巻き込んで作るようになった。
娘はそこで、自分のヴィジョンを明確にし、
指令を出すのが鍛えられたと思う。
「こういう葉っぱを、あと5枚持ってきて!」
「ねえ、この木の実どう?」
「うん、いいんじゃない?どこにあった?」
そうしていくつか出来上がる、
「お砂のケーキ」。
夕暮れに、思い思いのケーキを創り上げ、
砂だらけの手をぶらんぶらんさせて、
満ち足りた表情の、名前も知らない、子供達。
「ねえ、これ、明日も残ってるかなぁ」
「そうねぇ、雨が降ったら、なくなるね」
「こんなに綺麗なのに、勿体無いね」
うん、勿体無いね。
勿体無いけど、それでいい。
みんなでクリエイションしたことが、ただ悦び。
それだけ。
そして、その悦びも、数秒後には消える。
あのとき私たちは公園で、砂曼荼羅を作っていた。
チベットの高僧達がつくり、
祈りの終わりと同時に壊すという、
砂曼荼羅。
数日後に通りかかってチェックすると、
もう影も形もない。
「あーん、やっぱりもうないかー。
ママ、またつくろうね」
「そねー(えーっと、玉ねぎまだあったかな)」
無常というのは、別に悲しいことじゃなくて。
また新しいものを創れる、スペースが生まれたということでもあるから。
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