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仔犬、もらってください。

たまに漫画で「1匹だけぽつんと」捨てられた犬を拾う描写を見かけるが、田舎育ちの私からすれば、あんなリアリティに欠けるシーンはない。

実際に捨てられる時はいつだって5〜6匹、兄弟全員一緒なのである。

山道にて

桑の実だとか山ブドウだとか文字通り道草食いまくってた小学生時代の通学路には、少なくとも1年に1回、段ボールが無造作に置かれていたことがあった。

大抵その中身は目も開いていない仔犬や仔猫だったのだけど、それを見つけた時、私たち子供が次に取るべきアクションは不思議と決まっていたのである。

箱ごと持って帰る。
洗面台に湯を張って1匹ずつシャンプーをし、ノミを取る。
ドライヤーをかける。
新聞紙を引きちぎって新しい段ボールに大量に入れ、不要になったバスタオルと一緒に敷く。
綺麗になったその子たちを入れていく。
定期的にミルクを与える。
歯が生え始めたら、ペット用のご飯を与える。

そうしてだんだん人に慣れてきたころ、里親募集のポスターを手書きで作って、電柱やスーパーマーケットの掲示板に貼りに行く。

それができてから、母に運転してもらって仔犬たちを連れていく。

行き先はなぜか、地元の朝市だった。


日曜朝6時

新鮮な食材が並ぶ朝市という場所で里親探しをする家なんて、うち以外で見たことがない。

毎週日曜の朝、市役所の駐車場。
入口の一番手前の一番人通りが多くて目立つ所を陣取っていたのが私たちである。

冷静に考えたら「不衛生」だとか「迷惑」だとか言われてもおかしくはないのだけど、そのときは「そういうもん」だと思って疑問も持たなかったし、まだ小学生の子供たちが小さくて可愛い仔犬を抱いて、健気に「仔犬もらってくださーい!」と叫び続けるその光景に、異を唱える大人は当時いなかった。

「仔犬もらってくださーい」
「人懐っこくて良い子たちなんです」
「トイレのしつけもできてます」
「どうか、仔犬、もらってくださーい!」

人と話すのが苦手な私もなぜかこの時だけは、声を張り上げて懇願していたと記憶する。


山道で拾うたびにそうして朝市で里親を探すもんだから、
「ほらこの子、あんたんところから貰った子だよ」
と散歩がてら顔を見せてくれる人もちらほらいた。
幸せそうに暮らすその子たちを見るとやっぱり、少なからず嬉しく思ったものである。


残りの子

そいつは耳が少し禿げていて毛もパサパサで、ダックスフンドでもないのに足が短くて、コーギーでもないのに胴体がまん丸だった。

6匹いた中でも特にトイレの覚えも悪かったし、体の大きい兄弟に踏んづけられてエサを取られて、そいつのためだけに器を用意することもしょっちゅうだった。

大抵3回も朝市に行けば、みんな貰い手が付くのに。

「チビお前、また残っちゃったのか」

器量が良くて愛嬌もあるやつから欲しがられる。
その不器用さも含めて、最後まで残ったそいつと自分を、当時の私は重ねない訳にはいかなかった。


そこのけそこのけ

小学生のころ犬が好きだったのは、喋らなくて済んだからだ。
きっと物言わずとも、通じ合う何かがあったからだ。
愚図でノロマで口下手で誤解されやすい自分にさえ、尻尾を振って頼ってくれたからだ。

中学に上がってその道を通らなくなるまで、拾っては里親を探し続けた6年間。

気付けば家族も「チビ」と呼んでいたそいつは、結局うちに残って10年生きた。



最近実家に住むようになってから気付いたことがある。
毎日うちの前の道を散歩する、老夫婦が連れた犬。
ダックスフンドでもないのに足が短くて、コーギーでもないのに胴体はまん丸だ。
だけど耳は禿げてなんかいないし、毛並みだってとても良い。

とても大事に育てられているその犬は、紛れもなくチビの孫だった。


その姿を見て、かつて劣等感に苛まれた幼少期、必死になって里親を探していたことを、ふと思い出して私は微笑んでしまう。


だってあの子も今、あんなに胸を張って闊歩する。









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