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「ソラリスとしてのコロナ」 福嶋亮大『感染症としての文学と哲学』

福嶋亮大さんは宇野常寛さんが今最も信頼する同世代の批評家です。この前『ドライブ・マイ・カー』について、コメントも一切読まずに約2時間えんえん二人だけで語り続けるという、若干狂気的な放送をしていましたが、話は日本映画の系譜、昨今のハリウッド映画のモチーフの喪失、村上春樹、陰謀論と、これ以上ないほど知的刺激に溢れていてとてもよかったです。

この本で福嶋さんは今回のこのパンデミックを機に、「哲学と文学と疫病の関係性」を西洋文学と哲学をもとに描き出しています。時代に即したテーマを扱っていながらその記述はプラトンからボードリヤールまで歴史を参照して余すところなく、「人類は疫病をいかに人文学的に取り込み、また取り込まれてきたのか」という深く本質的な議論が展開されているところに、福嶋さんの並々ならぬ力量が出ていて、ほんとうにすごいなと感じました。

特に面白かったのは、かつてスーザン・ソンタグという批評家が『隠喩としての病い』という本で「結核は両義的な隠喩で、災厄であると同時に繊細さの象徴でもあった。癌のほうは災厄としてしかみられず、隠喩的に言うならば内なる野蛮人でしかなかった」と、想像力が病いという「他者」をどのように受け止めてきたのかを論じたのを受けて、「では今回のコロナウィルスは隠喩的にどうなのか?」と問い直した部分。福嶋さんによれば今回のコロナはむしろ「特徴がないことが特徴」とも言える感染症であり、もはや何かの隠喩(ex:結核にかかっている=繊細、など)にはなっておらず、むしろ換喩(ex:青い目=西洋、など)的に作用し、世界を次々と置き換えた(ex:対面授業がオンラインになったり)。だから今回のコロナは何かの隠喩ではなくクリーンな記号であってわれわれの世界を拡大して見せているだけだと見るべきなのだそうです。言ってみれば、それは人間の無意識を具現化してしまう、スタニスワフ・レムの「ソラリス」に近い。なので「コロナが世界を変えた」的な言説には警戒すべきで、むしろ変えたのではなくこれまであった状態を加速させたので、この機に「コロナによって世界は変わってしまった。だから今こそ〇〇すべきだ」のようなポジショントークがいっそう過激化する危険性があると述べていました。

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