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「よい方向へ向けた冒険の手引き」 チェ・スンボム『私は男でフェミニストです』

ジェンダーやフェミニズムを考えることは、そのまま自分自身のことを考えることでもある。なぜならジェンダーは人のアイデンティティを大きく規定している要素であり、フェミニズムとはその問い直しのことだからだ。自分が自分であることを問い直すこと、それがジェンダーやフェミニズムについて学び、考えるということである。つまり、ジェンダー学そしてフェミニズムは「自分学」にほかならない。それは時に、自分の安定した日々の生活の足場がガラガラと音を立てて崩れ、見たくなかった自分を突きつけられる経験であることもあるが、思い込みが崩れることは新しい自分を作り出すチャンスでもある。そういう意味で、そこには常によい方向へ向けた冒険がある。


本書はその冒険の素晴らしい手引きとなってくれる一冊だと思う。著者は韓国の男子校教師にしてフェミニストのチェ・スンボムさんだ。この本は形式としてはエッセイで非常に読みやすく書かれているのだが、扱っている内容はシリアスなものばかりである。たとえば、韓国が日本以上に「男尊女卑社会」であって、社会構造のマクロのレベルから日常語などのミクロなレベルまで、あの手この手を使って女性の社会進出を防いでいるということ(たとえば、韓国には意見をはっきりいうような、自立した女性のことを罵る「キムチ女(にょ)」という言葉があるという)や、2016年の5月に韓国で起きた、女性を狙った無差別殺人事件「江南駅殺人事件」のことなどが語られる。どれも笑い事ではない習慣や事件で、日本もたいがいだが韓国ではもっと遅れているジェンダー平等について、真剣に考えさせられることばかりだ(だが、変化のスピードは韓国の方が速く、このままでは日本は韓国よりもひどいジェンダー後進国になりかねない状況にある。というか、2022年のジェンダーギャップ指数ランキングではすでに韓国に追い越されている)。


また、個人的に心が痛かったのは著者がなぜフェミニストになったのか、というくだりだった。彼は家族のために自分の一生を犠牲にした自分の母の姿を見ていて、それが振り返ってみると自分がフェミニズムを勉強し始めたきっかけだったと述べている。話は少し変わるが、2014年にノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんのお父さんが「マララさんにどんな特別なことをしたのか?」と聞かれて、「彼女に教育を与え、翼を折らなかっただけです」と答えた、というのは有名な話だが、残念ながらこれは平均ではなく、例外中の例外に過ぎない。本書の中で、著者が自分の母親の翼が折られていく過程を深い同情とともに淡々と描いていく記述には、他人事ではない、と思わされた。


差別は巧妙なもので、面と向かってそれを非難できるような場所からはたいがい姿を隠してしまっている。ではそれはどこに潜んでいるかというと、私たちの「自明という盲点」の中にこそしばしば隠れているのだ。この差別というものの性質を理解しておかないことには、現実を少しでも良くしていくための議論のスタートラインにすら、立つことができない。そして男性であることを半ば宿命的に強いられている僕らのような人々にとってそれは、しばしば自分が無意識の加害者であり、搾取の上に生きているということを認識することでもある。


だが、その認識にはさらにもう一段階、奥がある。それは、男性が全員潜在的な加害者であってしまうことは男性個人の責任ではなく、家父長制というシステムのしわざであり、このシステムがいわば男性に加害者であることを強いているとも言える、という認識だ。この点では男性も被害者だという見方が成り立つ。現に、「男らしさ」を強いられることにしんどさを覚えている男性も多いのではないだろうか?(これを男らしさ=「マンボックス(man-box)」に入れられる、と言う)また、この見方については「そんなこと言って男性を免責するなんてけしからん」という反論もあるかもしれないが、僕はそれはちゃんと文脈を読んでいない単純すぎる反応だと思う。「男性-女性」を「加害者-被害者」の対立構造から解き放ち、共にシステムの改善に向かっていくための新しい議論を開始できることがこの見方を僕が採用する理由だ。そして「男性の責任問題」というのは「男性」といった抽象的な主体の責任問題にしてしまうのではなく、もっと具体的に個人の責任問題として処理すべき問題であると思っている。


フェミニズムは家父長制を批判し、女性の地位向上を目的として始まった運動だ。しかし、今日においてフェミニズムの捉えている射程は女性だけではなく男性の幸福にも及んでいる。いや、それだけでも十分ではない。LGBTQ+と一般に呼ばれている、多様な性のあり方全ての幸福を、それは射程に含むものでなくてはならない。だから、フェミニズムは誰しもに関わりがあるよい方向への冒険の代名詞になるべきなのだ。その過程でその運動の名前は、もちろん変化していって構わない。だが、そのためにもまずは現実的なところから。その一歩を踏み出すために、本書はよき伴走者になってくれるに違いない。


追記:本文では扱いきれなかった論点として「男性のフェミニストだからこそできること」というのがある。それについて著者が提示する答えは簡単で「男が男に向き合うこと」だ。男性の中には「こんなの逆差別だ」とフェミニズムの制度的達成に対してイチャモンをつける人もいるが、その怒りをぶつけるべき相手はまかり間違っても女性ではない。自分が逆差別を受けている、と感じたなら、その怒りはそういった制度を作ってでも押さえ込まざるをえなかった過去や現在の男性の横暴に向けられるべきだ。「お前たちみたいな男がいるから、僕たちが迷惑するんだ。そういうことすんな!」という反応が正しい。女性が男性を批判することより男性が男性を批判することの方が圧倒的に届きやすい。そういった「良き共闘者」になれるかどうか、というのが、これからの新しい男性性の一個の条件になるだろうという気が僕にはしている。そういう意味でもこの本は「自覚から実践まで」の一つの道筋を示しているという点で、優れた手引きだった。

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