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「世界は見方次第でどこまでも豊かになりうる」 宇野常寛『水曜日は働かない』

「水曜日が休みになると、1年365日がすべて休日に隣接する」

宇野常寛『水曜日は働かない』

このことの意味が、最初はよくわからなかった。事実としてはたしかにそうだし、なんなら僕も昔から水曜日さえ乗り切れれば一週間ももう折り返しだと思って生きてきた人間だったので、そこを休みにすればそれはさぞいいだろうと、そのくらいに捉えていた。しかし、これは週休3日制にするにしても3連休だとちょっとだれちゃうからここは思い切って週の真ん中に導入してみたらどうでしょうか、というような類の提案では全くない。これは僕らが灰色の目をした大人にならないための、自分の人生を自分の物語として主体的に生きていくための、そして、マウンティングと承認の快楽によっておかしくなりかけてしまっているこの国をすこしでもましで優しいものにしていくための、ささやかながら大胆な提案なのである。


と言うと、難解で意気込みに溢れた本なのか、と思われる方もいるかもしれないが、そんなことはない。筆致はきわめて軽やかで、ユーモア精神に溢れている。それどころか、ところどころは本気でふざけている。宇野さんが自動車のディーラーにえんえん嘘を言い続けたり、仮面ライダーのポーズをとっていたりする。だが、だからと言って真面目な話が薄くなるということはなく、しみじみ考えさせられる部分も多いし、時には胸が熱くなる。宇野さんの個人的なうどんよりそば派なのだという話と、これからの公共的なものはどうあるべきかという話がシームレスにつながっていく。それは普段つながっていないものだと思われがちだが、しかしこの「きわめて個人的な話」と「大真面目に公共的な話」というのは本来このようにつながっているべきもので、このように行き来できる自由さと知性を持てていることが重要なのだ。もちろん、それはとりわけこの時代には簡単なことではないけれど、宇野さんというモデルがいてくれることは一個の希望だと僕は思う。読み終えて改めてその感を深くした。


本書は「水曜日は働かない」というエッセイに加えて、『大豆田とわ子』『シン・エヴァ』『花束』などの作品の批評、そして宇野さんの友人たちの「横顔の肖像画」ともいうべきエッセイの3部構成になっている。僕が特に感銘を受けたのは(いやほんとは全編感銘を受けてもう本は線だらけなのだけれど)、真ん中の作品批評の『ジョーカー』論だった。ここで取り上げられている『ジョーカー』は19年のホアキン版ジョーカーで、ヒース・レジャー版の方ではない。ではないのだが、前半が実は濃密なノーラン論になっていて、ここがものすごかった。批評家の石岡良治さんのノーランに関する寸言から想像を膨らませ、ノーランの作品を初期から大胆に絵解きしていって彼の作家性を浮き彫りにし、彼がいま陥ってしまっている現代的な罠を分析する。それは具体的には、彼がSNSやテクノロジー嫌いを公言し、「内面ではなく外に行くんだ」と張り切って監督したSFものの『インターステラー』が、はるばる5次元宇宙まで行って確かめるのは自己憐憫的な矮小な男性性だけ、ということだ。「世界を見る目が養われなければ、人は何ものにも出会えない」。それは次元を超えたってそうなのだということを炙り出す。そしてこの宇野さんの確信は、いま発刊している「モノノメ」でさらに実践的に展開されていっているものなのだが、またこれは逆に言えば、僕らは世界を見る目さえ養うことができれば、この今生きている日常から無限に豊かなものを汲み上げることができるということでもある。そのための時間を持とうということ、それが「水曜日は働かない」ということでもあるのだと気付かされる。


この本を読んだことによって、僕はもうあまり夜更かしをしないで朝の時間を大切にすることに決めた。人に合わせすぎないことをベースに人と合わせていくことにしようと思った。この本はそういったささやかだが決定的な変化をもたらしてくれる一冊である。軽やかに、次の日からの人生を変えてしまいかねない本である。

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