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呪いの本

「せーんせい」
 その女子生徒が部室を訪れたのは、もう空が暗くなりかける夕刻のことだった。
 だいたいの生徒は帰宅の途につき、鈴木は自分が顧問を務めている部室の戸締まりと今日の日誌を確認しているところだった。
 日誌から顔を上げると、そこにいたのは先刻の声から想像した通りの1人の女子生徒だ。
「どうした、青井。もう暗いから帰りなさい」
 綺麗な茶色に染められた真っ直ぐな長い髪、前髪が落ちてこないようにつけられた赤いヘアピンがきらきらと部屋の蛍光灯を反射して光っていた。
 明かりの関係からか少し色素の薄いように見える瞳にはくるんとカールしたまつげが濃く影を落とし、その大きくカーブしたアーモンド型の瞳を彩っている。
 緩く弧を描く唇は健康的な桜色で瑞々しい。
(まるで、お人形のようだな)
 青井を見るたびに鈴木はそんな感想を抱く。
 生まれた時から男である鈴木はそんなにまじまじと人形と呼ばれる物の類を見たことなどはないのだが、勝手な脳内のイメージの砂糖菓子やらお花やらのよく似合うお人形の姿と青井のその整った顔立ちや華奢な姿とを重ね合わせて見ていた。
 ふわふわとしたその甘い印象が、なんとなくそういったものを連想させるのだ。
「ちょっと先生に見せたいものがあって」
 そう言っていたずらっぽく笑うと、青井はバックから何かを取りだそうとごそごそと漁る。
「もう遅いから、少しだけだぞ」
 そう言いながらも可愛らしい生徒にそのように言われて、悪い気はちっともしなかった。
 青井は鈴木にとって好ましい生徒だ。なにせ幽霊部員の多い我が文芸部で部室を訪れてくれる生徒は珍しく、もちろん、青井もそのご多分に漏れずそう頻繁に訪れるわけでもないのだが、それでも文化祭だの何だのと原稿が必要な際には必ず何かしらの作品はきちんと収めてくれる模範生なのだから。
 その上見た目も態度も可愛らしいともなれば、評価はうなぎ登りである。
 果たして、えへへー、と可愛らしく照れながら彼女が差し出したのは、一冊の本だった。
 いや、ノートだろうか。
 そこそこのページ数があり紙製ではあるがそこそこしっかりとした分厚い装丁をした、しゃれた花柄をした冊子が青井のバッグからは飛び出してきた。
 本ではないと思ったのは装丁が書籍の割には安っぽいのと、タイトルが書かれていないからだ。
 そういえば、日記帳などこういった手の込んだものが売られたりしていることがあるな、と鈴木はいつだったか訪れた本屋の売り場を思い出した。
「あのね、本を作ってみたの」
 先生に一番最初に見て欲しくて。
 そういう青井の頬にはわずかにだが朱が差し込み、その件の“本”で顔を隠してしまった。
 恥らう様子は大変可愛らしい。
「へぇ、本か、いいね。どんな本なんだ?」
 上機嫌で鈴木はそれに応じる。
 しかしもうすでに今月分の文集は作成し終えてしまったし、特別原稿も募集していない。ふと思い立って作ってみたくなったのだろうか。だとしたらこれは来月の文集用に回しても良いかもな、と考えながらその本を受け取った。
 青井はなおも恥らっている。
 しかし、鈴木が本を受けとった瞬間に、はっきりと
「あのね、呪いの本なの……」
 と口にした。
 とんだ爆弾発言だ。
 ぴたり、と鈴木の動きが止まる。
 思わず受け取ってしまった本をまじまじと見返した。
(呪いの本……?)
 可愛らしい青井の口から出てきたとは思えない、随分と物騒な単語だ。
(何か悩みがあるのだろうか……)
 そりゃあ箸が転がっても悩むような繊細な思春期の少女なのだから、悩みの一つや二つや三つくらいは存在するだろう。
 いじめとかではないよな、とちらりと青井の様子を覗う。
 あいにくと担当クラスではないので授業中の詳しい様子などは鈴木は知らない。しかし部活動に参加している様子を見る限り、特別他生徒と仲が悪い様子は見たことがなかったし、ふと廊下などで見かける時などは友達であろう生徒と和やかに談笑していたり、昼食を取っていたりする姿を時々見かけていた。
(いや、しかし……)
 今、現在青井は1人で部室を訪れている。こんな遅い時間にだ。
 もしかしたら一緒に帰る友達がいないから帰りづらいとか、いつも一緒に帰っている友達と喧嘩したとか、そういうことがあったのだろうか。
(とりあえず青井の話を聞いて、場合によっては養護教諭に相談して対応を考えなければ)
 と、鈴木がそこまで思案したあたりで青井は「あのね、」と再度口を開いた。
「読んだら、私のことを好きになる呪いをかけた本なの……」
 思わず身構えていた肩から、その言葉で力が抜けるのがわかった。
(なぁんだ、ただの思春期か)
 色恋沙汰が異様に気になるお年頃だ。そういう本を作りたくなることもあるかも知れない。
(大人になった時には、確実に黒歴史になるだろうが……)
 まぁそれもいいだろう。青春じゃないか。
「へぇ、青井のことを好きになる本か。先生が読んでもいいのかい?」
「先生に読んでほしいの……」
 頬を赤らめるのをそろそろ止めて欲しい。
 自分がいけない人間になったかのような気分になってしまう。
 生徒相手に変な感情を抱くような変態では鈴木はないのだ。
 もぞもぞと居心地悪く座り直しながら「そ、そうかぁ」と応じるのがやっとだった。
 女生徒と二人きりの教室で、読んだら“好きになるおまじないをかけた本”を手に「先生に読んでほしいの」ときた。
 妙な気持ちになるな、という方が無理がある。
(俺は教育者、俺は教育者、俺は教育者、俺は教育者……)
 頭の中で何度も念じる。
 そうだ、きっと青井は誰か好きな人がいて、その相手に渡す前のお試しとしていつも青井の原稿を読み慣れている文芸部の顧問である鈴木に渡しにきたに違いない。
(うん、間違いなくそうだ!)
 そうに違いない。そう思うと一体何を俺は血迷っていたのか、と鈴木は自身を恥じた。
「じゃあ、遠慮なく」
 そう言って期待に満ちた目で見つめてくる青井の視線の前で、ゆっくりとページを開く。
 すると、そこには……、

 『貴方は私を好きになる、貴方は私を好きになる、貴方は私を好きになる、貴方は私を好きになる、貴方は私を好きになる、貴方は私を好きになる、貴方は私を好きになる、貴方は私を好きになる、貴方は私を好きになる、貴方は私を好きになる、貴方は私を好きになる、貴方は私を好きになる、貴方は私を好きになる、貴方は私を好きになる、貴方は私を好きになる、貴方は私を好きになる……――』

 延々と同じフレーズが繰り返されていた。
 思わず勢いよく鈴木は本を閉じる。
 油汗が、額に浮かんでいるのがわかった。
「先生」
 頭上から掛けられた声に、びくっ、と肩が跳ねた。
 恐る恐る、顔を上に上げる。
「ねぇ、どうだった?」
 見上げた先の顔は、輝かんばかりに期待に満ちあふれた大輪の花のような笑顔だった。
「なるほど、確かにこれは呪詛ですね……」
 なんとか、不自然にならないように気をつけながら言葉を返す。
 軽く、息を吐き出した。
「これは、責任を持って先生が封印しておきます」
 ええーと不満そうに上がる声に、鈴木はもう一切取り合わなかった。
 触るのも恐ろしい“呪いの本”を厳重にひもで縛ると、部室に備え付けられた鍵のかかる棚の奥深くに厳重に“封印”し、その後一切開かなかった。
 人は“見ない振り”というとても素敵な能力を持っているのである。

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