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インターネットの錯覚ー「僕たちのインターネット史」読後感#1

 95年生まれの私が、インターネットを手に持ったのは大学生になってからだった。高校時代はガラケー、家にはパソコンはなかったけれど、何ら問題もなく不自由せず暮らしていた。と、書いてみると、まるで貧乏な家で育ったかのように思われるかもしれないが、地方出身で大学生になって初めて一人暮らしを経験した同世代にとっては、こうした境遇を理解いただけるのではないかと思う。もちろん、同世代の中ではインターネットを経験するのは遅いほうだし、少し誇張も含んでいるかもしれない。

 何が言いたいかというと、気がついたら手元にはスマホがあり、インターネットに繋がった生活を始めていたということだ。今現在、学生時代を謳歌する世代は、デジタルネイティブと呼ばれているが、突然スマホを手にした私も、時期は遅いかもしれないが既にインターネットが社会に溶け込んだ生活を当たり前に送ることになっていたのである。

 ひょんなことから、”マンガZERO”というアプリで「スティーブズ」を読んだ。スティーブジョブズを亡くなってから知った私は、改めて彼は一体何をしたのか知りたいと思ったのである。そして、そこに描かれていた、私が想像もしなかった世界に衝撃を受けた。曲がりなりにも歴史の教科書や時代小説も読んで育ち、国・時代が違う物語に接しているので、私の感じた衝撃はただ単に今の時代と違う世界を見せられたことによるものだけではない。私の知るベトナム反戦運動を引きずり、冷戦真っ只中の1970年代、80年代のアナログな世界ではなく、全く知らないデジタルな世界の嚆矢を見せられたことに対する、自分の考える世界の拡張を感じたことに依る。

 DRAMも知らなければ、拡張スロットも知らない。Macintoshにつながる研究が、PARCで行われていたなんて知りもしなかった。プログラミングはほんの少し習ったことがあるからどんなものかはなんとなく知ってはいたものの、インターネットの仕組みやら今のコンピュータの歴史は知らないし、知ろうともしなかった。目の前にインターネットがあれば、世は泰平。そんな価値観でいたからこそ、インターネットのことなど考えようともしなかった。しかし、こんな事では今はITの時代だ、AIが来る、今度は5Gだなんて言えたものではないだろう。目の前で動くPCがどう動いているのかも分からずに、「PCはすごい、クリックすると、このPCは家に本を届けてくれるのだ」と言っているのと変わりがない。

 長い前置きになってしまったが、そこで手に取ったのが「僕たちのインターネット史」だった。本書は、インターネット黎明期からリアルタイムでインターネットに関わってきたばるぼら氏とさやわか氏の対談形式で、インターネットの言説史が語られる。80年代のパソコン通信からインターネット通信への移行期、90年代のインターネットの拡大期、ゼロ年代のインターネットのビジネス化期、そして10年代の政治・社会・経済を語る場としてのメディアへの変遷期。日本人がインターネットを受け止め、活用してきた過程を記している。面白いのは、日本では「スティーブズ」に描かれるようなヒッピー文化やカンターカルチャーの思想背景からインターネットが受容されていったわけではないということだ。

 本書で見逃してはいけない指摘は、「インターネットは、みんなと同じものを見ている、という感覚になってしまえるメディア」という点だと思う。本書では、それを”錯覚”だと言っている。インターネットは日本のみならず、世界中の人々の意見や出来事をあたかも目の前にあるかの如く見せてくれる。インターネットによって、距離が縮んだんだ。けれど、それは世界中の全員が見ているものと同じ元を見ていることを意味しない。よくよく考えて見ればわかることだ。職場で会う同僚、親しい友人と昨日見たニュースを共有してみると、驚くほどの違いに気づく。テレビやラジオが大衆に溶け込んでいた昭和の日本のほうが、よほど同じ内容を共有していたに違いない。今は、親しい友人との間にも、会話の前提となる情報やコンテンツは異なるのだ。これを、まるで同じ内容を読んでいる・共有しているかのように感じてしまうことを”錯覚”だというのだ。

 オンラインサロンやクローズドなコミュニティの増加は、こうした錯覚を避ける一つの手段なのだろう。本書にも書かれている「インターネットの中にインターネットを作っているみたいなもの」の発展形だと思う。その良い悪いの価値判断は私にはできない。けれど、みんな少しずつ気づき始めているのかもしれない。インターネットで情報がすぐに手に入れられて、それを前提に話をしても、リアルな人の間では前提の知識が通じずに、四苦八苦する。だからこそ、前提を共有したクローズドな空間で、人と交わろうとする。

 デジタルな世界は視覚、聴覚には非常に大量の情報量をもたらしてくれる。けれど、味覚、嗅覚、触覚の情報量は圧倒的に不足している。今後はできるようになるのかもしれないが、インターネットでなんでもできてしまうと自惚れるのは少し早い。インターネットが人との距離を縮めるメディアであることは、”錯覚を避けるために心にとどめておく必要があるのかもしれまい。

「キリングアート(KillingArt)」っていうハンドルネームのゲーマーに会ったことがあるんです。...なんで「キリングアート」っていうハンドルネームなのかという逸話がすごく面白かった。 彼ははじめてネットゲームをやった時に、ある海外プレイヤーにいきなり殺されたそうです。それで「ひどい!」と思って、「なんでこんなことをするんだ?」って聞いたらしいんですよね。そしたら、その外国人が「俺、正直このゲームもうやめようと思ってるんだけど、ずっとこの名前でやってきたから名前がなくなるのがしのびないんだ」と語りだして、突然「今日からお前がキリングアートっていう名前を継いでくれない?」って頼まれたらしいんです(笑)。...それで、その日からキリングアートになったんですよ。ネットゲーム初心者だったのに、めっちゃめちゃゲームをやり込んでうまくなって、「キリングアートを襲名したんだから、俺もプレイヤーキラーにならなきゃ!」っと思って急に人殺しをはじめるという(笑)」

なぜか心に残った文章だった。

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