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五話 ひきこもり瑞祥妃は黒龍帝の寵愛を受ける

 楊淑妃の側につくことを許されてから約ひと月。
 初めは警戒し敵意ばかりを向けていた侍女たちは、今ではその警戒を解き態度が軟化していた。
「李才人様はお話してみると案外普通のお方なのですね」
 素で出てきたような侍女の言葉に面紗の中で紅玉は苦笑いする。
 下級妃と言えど仮にも皇帝の妃に対して“案外”とはずいぶんな物言いである。だが、初めの敵意しか向けて来なかった相手の言葉だと思うとむしろ喜ばしいとも思えた。
 もとより紅玉は噂のように人を呪い殺したことなどない。ごくごく普通の娘なのだ。
 悪女と呼ばれるようになったのも、瑛貴妃の策略のようなもの。
 後から知ったが、紅玉が力を抑えるためにまじないをしていた事情が白龍帝に伝わっていなかったのは、瑛貴妃の父である尚書令・瑛宗苑えいそうえんの思惑だったらしい。
 娘を皇后にと望む故に、瑞祥の娘である紅玉の存在が邪魔だったようだ。
 それを知った頃には紅玉もすっかり白龍皇后になる気も失せていたため、瑛貴妃の噂と共に放置してしまった。
 下手に行動を起こすと本格的に消されてしまう可能性もあったので、まじないが消えて白龍皇后にされかねない事態になるまで離宮に引きこもっていたのだ。
 噂のせいで離宮付きの侍女は紅玉を敬遠し食事を運ぶ以外は寄り付かなくなったが、身の回りのことは基本的に出来るのであまり問題はなかった。
 そのように誰とも関わらずに過ごして来たのだ。李紅玉という妃がどういった人物なのか知らない者の方が多いだろう。
 そんなことを思い返しながら楊淑妃の食事の準備を進める侍女たちを見ていた紅玉に、「そういえば」と淑妃の声がかかる。
「中秋節もそろそろね。私は参加出来るか分からないけれど」
 あなたは参加するのでしょう? と話しながら淑妃は臨月の腹を撫でた。
 中秋節まではあと約ひと月。今にも生まれそうな腹を見ると、確かに参加は無理そうだと思う。
 「はい」と短く返す紅玉に、淑妃は頬に軽く手を添えた。
「此度は黒龍皇后が決められるでしょう? 出来れば見ておきたかったわ」
 白龍帝の子を身籠っている淑妃が選ばれることは勿論ない。
 だが、白龍帝の対となる黒龍帝の皇后だ。この後宮から選ばれるということもあり気になるのだろう。
「誰が選ばれたのか、後で教えてほしいわ」
 紅玉が知らせるより先に侍女が知らせるだろうが、それでも紅玉の口から聞きたいと淑妃は言う。
 ならば話しに来ようと思う。そのときには、瑞祥妃であることも明かせるだろから。
「は――」
 チューーー!
 はい、と返そうとしたが、耳障りな鳴き声に遮られる。
 何事かと騒がしい場に目を向けると、床を一匹の鼠がぐるぐると走り回り侍女達が逃げ惑っていた。
 だがそれも長くは続かない。鼠はまた苦し気にチュー! と鳴くと、今度はぱたりと動かなくなってしまったのだから。
 泡を吹いて、ピクピクと痙攣し、沈黙した。
「……これは」
 鼠の死骸を見て黙してしまった場に、淑妃の掠れた呟きが響く。
 瞬間全てが動き出した。
 惑っていた侍女たちは淑妃の目から鼠を隠し、乱れた場を正していく。
 そんな中、淑妃の筆頭侍女が近付き状況を説明した。
「汁物に毒が混入していたようです。毒見が匙ですくったときに少々粗相してしまい、床に零れた汁を鼠が口に入れた様なのです」
「まあ……それでは毒見役も無事に済んだということね。良かったわ」
 毒を盛られたことは今回が初めてではないのだろう。
 淑妃の安堵した様子から、犠牲になった毒見役もいたのかもしれないと推測する。
「……その鼠は私が処分いたしましょう」
「え?」
 整然と場を清めていく侍女たちに紅玉は告げた。
「淑妃様のお側にある穢れは早々に祓わなくては。淑妃様、本日は失礼してもよろしいでしょうか」
「ええ、許します。ありがとう、李才人」
 許可を得た紅玉は淑妃に退室の礼を取り、清めていた侍女から布に包まれた鼠の死骸を受け取る。
「よろしくお願い致します」
 流石に死んだ動物の処理は嫌だったのだろう。侍女は幾分安堵した様子で包みを渡した。
「では、失礼致します」
 もう一度退室の礼を取った紅玉はすぐさま淑妃の宮を出て離宮へと向かう。
 鼠の死骸の包みを大事そうに抱え、足を速める。
(……ごめんなさい)
 胸の内で謝罪を繰り返しながら離宮へと急いだ。

***

 離宮の片隅の土を掘り、死骸を包みごと埋めていく。
 墓石代わりに手ごろな石を見繕っていたときに、今は来て欲しくなかった人が現れた。
「それは、もしや毒死したという鼠の死骸か?」
「っ!」
 鴉の事件のときといい、一体彼はどこから話を聞きつけてくるのか。
 分からないが、今は来ないで欲しかった。
 今彼に優しくされては押し込めていた感情が溢れてしまいそうだから。
 紅玉は喉に力を入れ、揺れた感情を無理矢理押し込めると声の主に向き直り礼を取った。
「黒呀様、貴方のような方が穢れに近付いてはなりません。今日のところはお引き取りを」
 感情を押し込めたせいで淡々とした物言いになってしまったが、致し方ない。
 早く帰って欲しいと願う紅玉だったが、黒呀は軽く跳ね除けた。
「瑞祥の娘であるそなたが弔っているのだ、問題なかろう?」
 しかもそのまま暮石代わりの石を共に見繕おうと紅玉の側にしゃがみ込む。
 品のいい黒の袍に冕冠を乗せた姿の黒呀は、上質な袍の裾が汚れるのも厭わず真面目に選んでくれる。
 そんな姿にも優しさを感じ、目元から雫が溢れそうになった。
 黒呀は鴉の一件のときだけではなく、こうして頻繁に紅玉に会いに来ている。
 その度に口説かれたり労われたりと紅玉の恋情を深めさせていくのだが、今この時ばかりはその優しさが辛い。
(だって、この鼠が死んだのは私のせいなのに……)
「紅玉? どうした?」
 動かぬ紅玉に様子がおかしいと気付いたのか、黒呀は土のついた手を払い立ち上がる。
 背に清めた手を添え、労わる様に撫でられ紅玉はもはや感情を押し込めるのが困難な状態になっていた。
「……優しくしないでくださいませ」
「紅玉?」
「その鼠が死んだのは私のせいなのに……このような私に優しくしないでくださいませ」
 鼠が卑しくも落ちた料理を食べてしまうことはままある。
 だが、今回に限っては自分の瑞祥の力が働いたからとしか思えなかった。
 紅玉は淑妃と誓約した。良きものを呼び、悪しきものを避ける力を成すために。
 今回は悪しきもの――毒を避けるために、鼠が引き寄せられ犠牲になったのだろう。
 毒見役が亡くなっても臨月の淑妃には精神的な負担となっただろうから。
「この鼠が意地汚く零れた汁を口にしただけなら私も淑妃様のように単純に安堵出来たでしょう。ですが、この子は私の願いを叶えるために犠牲になったのです。この子が死んだのは私のせい……こんな罪深い女に優しくなさらないでっ!」
 一息にまくし立てた紅玉は、それ以降言葉が紡げなくなる。
 感情的にならないよう押し込めていた罪悪感が溢れ、雫と共に嗚咽のみが零れた。
 黒呀は感情を荒げた紅玉に驚きつつも、背を撫でる手を止めない。
「罪など無い、そなたは淑妃を守ったのだ。鼠は哀れかも知れぬが、瑞祥の娘の力となったのだ。天界にて安寧を得られよう」
「っ! だから、優しくなさらないでください!」
 悲痛に叫び、不敬だと思ったが黒呀の手を払った。
 今は本当に駄目なのだ。黒呀の優しさに……慰めの言葉に縋り付きたくなる。
 縋り付いて、その優しさに愛を感じ溺れたくなる。
 自分以外を思う黒呀に、これ以上心を傾けたくないというのに。
「貴方様は私が瑞祥妃だから妻にと望んで下さったのでしょう? それ以上を求めてはくださらないのに、優しくしないでくださいませ」
 溢れた感情は普段押し込めていた思いすらも曝け出してしまった。
「これ以上、貴方様への思いを募らせるようなことをしないでくださいませ」
 一度口に出してしまった思いは涙となってぽろぽろと零れ落ちる。
 紅玉の嗚咽のみが聞こえる中、黒呀は静かに口を開いた。
「確かに私はそなたが瑞祥妃だから妻にと望んだ。だがそれは、そなたが瑞祥の娘としてこの地上に生まれ落ちると言ったからだ」
「……え?」
 予想もしていなかった言葉が出てきて涙が止まる。
 今、黒呀は何と言っただろうか。
 自分が、瑞祥の娘としてこの地上に生まれ落ちると言ったからだ、と?
 だがその言い方は、生まれる前……天界でのことだと受け取れる。
 そして、その言葉を口にしたのは……。
「天界での記憶は皆消えてしまうものらしいが、時折僅かだが残っていることがあるのだそうだ」
「……」
「私にも一つだけ残っている記憶がある。黒龍帝として生まれ落ちることに不安を覚え地上を見下ろしていたとき、声をかけてくれた少女の記憶だ」
 胸の鼓動が、ゆっくり、だが確実に大きくなっていく。
 黒呀の言う記憶とはもしや……。
「少女は私を元気づけるために自分が次代の瑞祥の娘だと明かしてくれた。そして、私の幸せを願ってくれると」
「あの男の子は、貴方様だったのですか……?」
 まさか黒龍帝となる者だとは思いもしなかった。
 天界にはすべての魂が集まる。地上で再び出会える確率はかなり低い。
 何より、通常は天界での記憶はない。
 だというのにお互い記憶を持ち、再び出会えた。
 運命すら感じる再会に、心が昂り先程とは違った涙が滲む。
「龍帝であるならば瑞祥の娘と出会える確率は高い。だから、私はそなたと約束したのだ」
「約束? 私が黒呀様の幸せを願うという約束のことですか?」
 どことなく違う気はしたが、それ以外に約束をした覚えがなく問い返す。
「そこは覚えていないのか」
 と少々残念がる黒呀だったが、すぐに笑みを浮かべ紅玉の手を包んだ。
 優しく温かなぬくもりに、守られているような心持ちになる。
「私の幸せを願うと言ってくれたそなたに私は約束をした。そなたが私の幸せを願ってくれるなら、私がそなたを幸せにしようと」
「っ!」
 つんと、鼻の奥が痺れるような感覚に言葉が出なかった。
 黒呀の言う『瑞祥妃だから』というのは、天界にて約束をした相手だからということだったのだ。
 それを知り、紅玉は救われた気分になる。
 黒呀は、“瑞祥妃”という肩書きだけで自分を妻にと望んだわけではないのだ。
 胸に宿るぬくもりに早くも幸せを感じていたが、続いた言葉はそれを上回った。
「とはいえそなたがどの国に生まれ落ちるかは賭けだった。同じ龍湖国に生を受けたと報が入り喜んだのも束の間、この国では瑞祥の娘は白龍帝の皇后となることが決まっているではないか」
 悔し気な声音。面紗の向こうに見える表情からは眉を寄せている様子しか分からない。
「兄は好色で多くの妃に手を出している。皇帝としては正しいのだろうが、そんな兄にそなたを奪われるのは悔しかった。……だが、無理に奪おうとした場合確実に争いが起こる」
 悔しげな声が悲痛なものになり、紅玉の手が更なる熱に包まれた。
「地上に恵みをもたらし、私の幸せを願ってくれると言ったそなたは争いなど望まぬであろう? だから、私はそなたを諦めるしかなかった」
「え……?」
(私を……諦める?)
 繋がりそうな糸がゆらゆらと揺れる。期待が絶望に変わらぬようにと自衛する心がその糸を掴ませてくれない。
 だが、黒呀への思いを強めた今、その期待を消すことは出来なかった。
(黒呀様は私を諦めると言ったの? 白龍帝に奪われるのを悔しいと思いながらも、争いを望まぬであろう私を思って?)
 確認のように心の内で繰り返すと期待は膨らんでゆく。
 膨らんだそれを泡のように弾けさせたくなくて、紅玉は思わず熱くなった黒呀の手を握り返した。
 紅玉の行動に少々驚いた様子の黒呀は、険しかった顔を柔らかな笑みへと戻す。黒曜石の目に甘さが宿った気がした。
「ひと月前、白龍帝の妻になりたくないと言い私の元にそなたが来たとき、私がどれだけ嬉しかったか分かるか?」
「黒呀様……」
「諦めるしかなかったそなたが自ら私の元へ来たのだ。夜中だったこともあり正直本気で夢かと思ったぞ?」
 あのとき、黒呀は叶わぬ恋をしているのだと思った。だから自分にその思いが向けられることはないのだろうと。
 だが、黒呀の話では……もしや。
「ではその……黒呀様の想い人とは?」
「想い人? そなたしかおらぬが?」
 他の可能性など皆無だと言わんばかりに答えた黒呀。あまりの喜びに、紅玉は息を詰まらせた。
 期待が現実に代わり、揺れていた糸が繋がる。
 高揚した感情は滲むだけだった涙を雫に変えて紅玉の頬を濡らした。
「……紅玉」
「っ、は、はい」
「顔が見たい」
「み、見せられる顔をしておりませんっ」
 拒否するが、黒呀は少々強引に紅玉の面紗の裾に手をかける。
 あっ、と思った頃には布がめくり上げられ、目の前の端正な顔がはっきりと見えた。同時に、泣いているみっともない顔を見られ羞恥から頬を朱に染める。
 化粧は薄いとはいえ、崩れているに決まっている。だというのに、黒呀は宝石のように美しい目を細め喜びの笑みを浮かべた。
「……美しい……綺麗だ、紅玉」
「黒呀、さま……」
「一度は諦めたが、そなたは私を選んでくれた。……ならば、私は約束の通りそなたを幸せにするよう尽力する」
 面紗の中に入って来る黒呀を紅玉は軽く驚きつつも受け入れる。
 近付く顔に、どうしようもなく胸が高鳴った。
「もう遠慮はしない。そなたは誰にも渡さぬ」
「っ、あ……」
 何かを、伝えたいような気がした。
 だが言葉を紡ぐ唇は塞がれ、泉のように沸き上がる思いが心を満たす。
 思いを交わせぬと思っていた相手からの愛のある口づけに、紅玉は溢れる思いを涙に乗せる。
 喜びの雫がまた一筋頬を濡らした。

六話へ

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