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四話 ひきこもり瑞祥妃は黒龍帝の寵愛を受ける

「聞いたぞ。見事なものだな」
 自身の離宮に戻る途中聞き覚えのある声に呼び止められた。
 見ると、金糸で品の良い刺繍が施された黒地の袍を身に纏った黒呀が供もつけず待ち構えている。
 簾のようなりゅうを垂らした冕冠べんかんをつけたその姿は黒龍帝のみが許されている朝服。
 昨夜見た夜着姿とは違う色気と凛々しさに、紅玉は思わず心臓を跳ねさせてしまう。
偶々たまたまでございます」
 頭を下げ礼を取り、意図せず早まる鼓動を誤魔化すように淡々と言葉を紡いだ。
 偶々とは言ったが、瑞祥の娘は良きものを呼び、悪しきものを避ける力を持つ者。
 あの子鴉の黒羽をあしらった傘を楊淑妃が持っていたのは偶々だが、あの場で親鴉が襲ってきたのは瑞祥の娘としての力が働いたからかもしれない。
 楊淑妃に気に入られなければと思う紅玉にとってはある意味好機となったのだから。
 襲われたときに紅玉がいなければ大事になっていた可能性もあるため、今回の場合はどちらにとっても最良だった。
 子を害されて興奮状態だった親鴉達には、瑞祥の娘である自分以外の声が届くとは思えなかったのだから。
「だとしても好機をものにするよう尽力したのだろう?……良くやったな」
 褒めたたえた黒呀は紅玉の手を取り礼の形を崩すと、そのまま引き寄せた指先にそっと口づけた。
「なっ⁉ 黒呀様⁉」
 瞬時に紅潮するのが自分でも分かる。
 紅玉は思わず引いた手を守るように胸の上に置いた。
 面紗があって良かったと切実に思う。今の顔は、きっと人に見せられないほどおかしな表情になっていただろうから。
「と、突然何をなさるのですか⁉ このような、口説くかのように……」
「何が悪い? 妻にと望む女を口説くのは寧ろ当然の行為だと思うが?」
「っ!」
 黒呀の口から“妻にと望む”という言の葉が紡がれて驚く。
 紅玉の方からの求婚だった。
 他に思う女性がいる黒呀は、瑞祥妃を不幸にするわけにはいかぬという思いだけで求婚を受けてくれたのではないのか。
 恋情は向けられなくとも大事にしてくれるだろうと思っていた。だが、このように口説く真似事までされるとは……。
「……私を妻にと望むのは私が瑞祥妃だからではないのですか?」
 黒呀の些細な行動一つ一つに心奪われそうになる紅玉は、冷静さを取り戻すためにそんな問いを口にした。
 当然肯定の言葉が返ってくると思った。紅玉が恋情を抱いても、同じ思いを返されることはないのだから。
 だが、心のどこかで期待してしまっていたのだろう。否定の言葉を口にしてくれると。
 だから……。
「……そうだな、瑞祥妃だから望むのだ」
 肯定の言葉に、紅玉の胸はずきりと痛んだ。

***

 清らかな霞漂う桃源郷。
 柔らかな風に揺られる柳に、穏やかな流れの川で戯れる水鳥。
 建築物は傷むことなく整えられ、金を使わずともどこか光り輝いている。
 不変の美しさは安らぎを与えてくれるが、どこか物悲しい。
 それは、黄龍帝が治める天界の様相だった。
(ああ、これは夢だわ。紅玉として生まれる前の、天界での記憶……)
 人々は皆地上での生を終えると天界へと還る。罪を犯したものは回り道をする羽目になるが、最後に行きつく先は皆黄龍帝の御許である天界なのだ。
 通常は天界での記憶を全て忘れて生まれるが、瑞祥の娘はその使命を全うするため僅かに記憶がある。
 黄龍帝から直々に受けた勅命。
 瑞祥の娘として地上に行き、龍帝の妃となり地に恵みをもたらせとかの御方は仰った。
 それが為されなくば、土は衰え、水は濁り、疫病が流行る。地上は荒廃の一途を辿るであろう、と。
 その地上の衰えは次代の瑞祥の娘が現れるまで続くのだ、とも。
 その重責に慄いたのを覚えている。同時に、その使命を全うしなければと強く思った。
 おそらく、歴代の瑞祥の娘はこの記憶だけを持って生まれ落ちるのだろう。
 だが、紅玉にはもう一つ覚えている記憶がある。
 黄龍帝から使命を与えられ、恐ろしくとも必ず成し遂げなければと勇んでいたときだ。
 下界の地を見下ろせる池のほとりで膝を抱え丸くなっている男の子を見つけた。
「どうしたの?」
 彼の背中が悲し気に見えて、つい声をかけてしまったのだ。
 男の子はもうすぐ地上に生まれ落ちる予定なのだが、次の生を穏やかに過ごせるのか自信がないと落ち込んでいた。
 どうやら特殊な家に生まれるらしい。
 悲しそうな彼を元気付けたくて、紅玉は自分が次の瑞祥の娘だと告げた。
「私が龍帝の妃となれば地上には恵みが溢れるわ。だから落ち込まないで、あなたの幸せも願うから」
 使命とは関係なく、男の子に元気でいて欲しいと純粋に思ったのだ。
 きっと、このときの思いがあるから紅玉は使命を全うしようと純粋に思える。
 仕事としての使命が、紅玉自身の願いにもなった瞬間だった。
 紅玉の言葉を聞いた男の子はやっと笑顔を見せてくれ、口を開く。
「ありがとう。なら、私があなたを――」
 ……そこで夢は途切れる。
 あの男の子は何と言ったのだったか。
 目が覚め、臥榻がとうの上でしばらく思い出そうと試みるが、考えれば考えるほど霞のように掴めなくなってくる。
 流石に諦め、紅玉は起き上がった。
 古びた木戸をがたがたと鳴らし開けると、柔らかな温かさの朝日が迎えてくれる。
 朝はまだ温かいと思えるが、昼に近付くにつれ夏の日差しで熱くなっていくだろう。この日差しが柔らかくなる頃には秋となっているだろう。
 秋には中秋節がある。黒呀が皇后に自分を選んでくれると約束した催事。
 瑞祥妃だから選んでくれると言った彼を思うと、やはりずきりと胸が痛む。
 紅玉以外の女性に叶わぬ恋をしている黒呀。そんな彼に自分も叶わぬ恋をしてしまったのかと自嘲する。
 だが、叶わなくとも好いた人の妻になれるのだ。
 彼が自分に向けるものが恋情でなはくとも、口説く真似事までしているのだからなにがしかの愛情はあると思う。
(それならやはり、私は白儀様より黒呀様がいい)
 痛む胸の奥にある恋情は、もう消すことなど出来ないのだから。
 自身にとって少しでも幸せな婚姻となるように。
 夢の男の子が、この地上のどこかで幸せに笑えるように。
 紅玉は改めて黒龍皇后となる覚悟を決めたのだった。

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