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リラクゼーションが導いてくれたもの|自分で気づいていくということ

本が好きだ。

だけど、最近は、あえて本を読みすぎないように努めている。

呑まれないように気をつけながら読んでいたつもりだったし、もちろん学びになったこともたくさんある。

だけど、本がフィルターになり見えなくなっていたのだなとか、本の受け売りになってしまっていたことがいくつもあったなとか、自分で気づきを得るためのセンサーの感度が落ちていたな、と感じることがあったからだ。

小学2年生のとき、両親にせがみ無理やり確保してもらった小さな一人部屋には、父が学生時代に読みこんだという、昭和の文学本でいっぱいの本棚がひとつ置かれていた。

小学生には到底理解できそうにない本ばかりだったのだが、たとえ読めなくても、その背表紙を、ただ眺めているのが好きだった。装丁の美しさ、題名から想像する世界、それだけでも十分に楽しめたから。

そんなわたしを、「お前は本のよさがわかるのか」と、父はとても喜び、ほめてくれた。

物心ついたころから読書が好きだったわたしは、家庭内でいちばんの権力をもつ父に太鼓判を押してもらったようで、本を読むこと=絶対的に良いことなのだと思うようになった。

本を読めば知識が増える。教養が身につく。世の中への理解も深まる。
そう思って、特に大学に入り受験勉強から解放された後は、少しでも空いた時間があれば何であれ本を手に取るようになり、小説、エッセイから、自己啓発、ハウツー、ビジネス本まで、なんでも読んだ。

なにか疑問や悩みが生じれば、まず本のなかに答えを探すようにもなっていった。

だけど、月に一度マッサージを受けるようになり、つまり少なくとも月一回は自分の総点検をするようになって、1年ほど経ったころ、ふと自分を疑う気持ちが生まれた。

「本を読んで知ったことはたくさんあったけど、本当にはわかってなどいなかったんじゃないかな?」

「挑戦することも、経験することもすっ飛ばして、わかったつもりになっていたことがたくさんあるんじゃないかな?」と。

『この世で起きること全ては学びであり豊かさである』と頭では考えていながら、実際は、楽しいことや嬉しいことだけを豊かさだと思っていて、苦しみはあくまで苦しみだと思っている、そんな自分の矛盾に気づいたことがきっかけだった。

自分のことが大好きで、自分では自分のことをよくわかっているつもりだっただけに、「全然わかっちゃいなかったんだな」と思い知らされ、なかなかの衝撃を受けた。

それで、振り返ってみると、思い当たることが色々と出てきた。

たとえば、ポジティブ思考や引き寄せといった類の本。

望む現実を叶えるための考え方や、心の持ち方を知り、本に書かれた通りに実践してみても、A子さんの例、みたいにドラマチックに現実が変わることって、なかなかないんじゃないかと思う。

少なくともわたしはそうだった。

いちばん大切な、本当の望みに気づくということができていなかったから。いや、当時のわたしは、「これが自分の本当の望み」だと確信していたのだけれど、体も心もガッチガチだったわたしに見えていたのは、うわべの望みだったから。

それで、ベクトルが根本的にずれているものだから、望みを叶えるためにと思ってやったことが空回りして、逆にどんどんしんどくなる一方だったのかと合点がいった。

あるいは、自分の気持ちに寄り添うように存在し、癒してくれた小説の数々。

自分と同じように孤独感を抱えた存在に出会い、涙を流し、癒された気持ちになっていたけど、自分の傷が完全に癒えていたわけではなかったのだと思い知ることになった。

マッサージを通して、身体がゆるみ、心がほどけ、受け容れる器が育ってきたころに現れたのは、ボロボロに傷ついた幼い頃の自分だったから。

物語に意味がなかったとは思わない。物語を読むことで癒されたことは、ほんとうのこと。

だけど、なにか限界突破するようなときには、やっぱり自分自身ととことん向き合うしかないのだと感じた。

決して、本を読むことに意味がないとか、よくないとか言うつもりはない。

本は、確かに、学びになるし、癒しにもなるし、ときには、インスピレーションが本を媒体にしてやってくることもある。

純粋に本が好きなわたしは、これからもたくさんの本を楽しむだろう。

だけど、知ることや疑似体験をすることと、実地を積み、自分で気づいていくことは、まるで違う。

自分で気づき、自分で真実を見出したときの、癒しの深さとか、わいてくる力には、ものすごいものがある。

これからは自分で感じ、気づいていく割合を、もっと増やしていきたい。

その余白を保つために、インプットはほどほどに、その素地となる身体の状態をととのえておくことを、大切にしていきたいと思っている。