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 「どこにもいかない」なんて、片方がもういないって感じたら、いないようなもんじゃないの?相手を思い出すことが祈り、それでたまに祈ったら、ずっとそこにいるってことなの?

 どんなあなたでもずっと愛しているよなんて言ってくるの、嫌い。絶対浮気しないって断言するやつより、浮気しないつもりだというやつの方が信頼できると誰かが言っていたのと一緒。しかも、愛しているつもりでいるみたいだけど、わたしのことをちゃんと見られていないやつに、「いつまでも愛します」と断言されるなんて、本当に最悪。今のわたしにそういう口先だけの安心させる言葉は要らないし、そもそもお前からの愛も注目も言葉もいらないし。そいつがわたしにできる最善のことは直ちに死ぬこと。

 昨日と同じ電車に乗っている。相手のことが好きなのが伝わってくる顔で幸せそうに笑う男女を見送った昨日と、ホームドアに「「でも、休みの日は家族サービスしないと…」そんな責任感の強い人にこそ読んでほしい!」なんて書いてある今日。こんなに違うのに、同じ「家族」という言葉の枠に入るなんて。友達とか、そこらへんの知らない人とか、ネットとか、いろんな家族を覗き見て、わたしはあんな家族なら壊れた方がましだった、といつも思う。

 今日は思考がざわざわしている。表面的な部分で生活をこなしているので、実生活は一応大丈夫なんだけど。こういう日は、歩道橋の上からぱっと飛び降りたくなる。希死念慮も、近々死ぬ予定もないのに。これは副作用だと思う。わたしが生まれてきたことの。

 八朔が食べたい。皮を剥くと手が痒くなるけど、やっぱり美味しい。砂糖ありきの八朔。ここらへんが旬。

 うわああとなった時は、ある人について検索する。とてもきれいな人なので、一旦落ち着く。彼のことはインタビューでしか知らないけれど、外見的にも内面的にも、わたしからするとものすごくきれいで、しなやかで、でも沢山のささくれを携えているような人。

 わたしは変わったのか?と思う。昔のわたしは、この前観た『ゴーストワールド』に出てくるシーモアみたいな人を好きになっていた。他者と心を通わせる勇気がないのに寂しがり屋で、プライドが高く、捻くれていて、他人を見下していることをうまく隠しているつもりでいる人。粘度が高く暗い色ばかりをグチャグチャに混ぜたような人。キモくてダサくて可愛いくて、たまに混ざっていない部分が見えるのが好きだった。

 興味の対象が変化しているのは、わたしの色が入れ替わっているから。破壊より、維持することの方が難しいんだと思う。俺はシーモアじゃない。

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