見出し画像

高齢出産 Part1 〜長く辛い道のり〜

リラグマ41歳の時に、初産いたしました。もう、この事には感謝しかありません。この歳で母にしてもらえた事、ここに至るまでの道のりは、実に重たく辛い日々でした。

私は子供大好きとか子供が欲しいとか、強く思う方ではありませんでした。でも、どこか子供は当たり前にできるという思い込み、できちゃった結婚とか、そんな言葉からも、どこかできちゃうものだと思っていたようです。

そもそも結婚も遅かったんです。結婚願望も特になく、これまた結婚もいつかできちゃうものだと思い込んでおりました。早い友達では20歳くらいに結婚しました。授かり婚というのですよね。そういうお友達もいました。

結婚に出産は、誰しも自然とできるものだ、考えたり計画的にするものではない、という若い頃の思い込み。。

独身時代。30歳を目前に、アラサーの焦りを経験しました(笑)なつかしい。。その頃に気づきました。やばい、私、まだ結婚できる状態ではない(汗)彼氏もいない(笑)イメージすらわかない。

でも、まわりによく言われました。「なぜ結婚しないの?」と。結婚って、したくてできるものではない!相手あっての話で、なんでそんな質問するの?せめて彼氏がいるなら、まだ理由も言えようが(笑)結婚しない主義、みたいな感じで質問されるあの感じ。やってられないなぁ・・・と当時の私は思っていました。無責任で雑な質問だと思っております。

また、リラグマ、合コンとかが苦手でした。お見合いとかもやりたくないと思っていました。今ではマッチングアプリ?とかいうもので出会いがあるようですが、警戒心バリバリのリラグマ。動物占いでは子鹿のリラグマ(笑)無理でした。こういうのをことごとく断るあたりに、結婚しない主義みたいなイメージができあがったのかもしれませんね。

そして、重なるものです。そのあたりでリラグマの父他界(T_T)還暦をお祝いをして、少ししたあたりでしょうか。旅立たれました。それも、より追い詰められた感じだった事を思い出します。父に花嫁姿を見せられなかった、みたいな気持ちもあったように思います。

やや情緒不安定気味なアラサーでしたが、とりあえず仕事もありましたので、なんとか仕事で乗り越えましたが、そこで色々心労重なった事からか、プチ鬱状態に陥り、鬱一歩手前あたりで医者から辞めた方が良いと診断をくだされ、退職しました。そこから、ちょっとした引きこもりですね。。(でも後から考えたら半年程度でした)

息する事すら面倒な、なんとも言えない日々でした。精神科やカウンセリングにも連れて行かれて、気分が優れないと言うと、どんどん抗うつ剤の種類を変えられます。また、カウンセラーの方が明らかに私より年下で、その方に自分の胸の内を言う事に、なんとも気恥ずかしいような抵抗感やら劣等感もあって、とうとう、通院も勝手に放棄しました。

しかし、何のきっかけたか、ふつふつと物欲がわいてきました。ふとダイヤモンドに興味が出て(笑)ハリーウィンストンの本を読んでいました。

ああ。この本、めちゃみていました。(笑)そして、しばらく友達とも連絡していなかったのですが、宝石の販売をしている知人にコンタクトをとり、良い石があれば声を掛けて、と言っておきました。

そして、ある日良い石とのめぐり合わせがあり、それを、何も使わなかった失業保険でバーンと買ってみました。そして、その石を指輪に仕立てようと、知り合いのジュエリー作家さんにつないでいただき、作っていただきました。

そうやって少しずつ人との交流もできていて、すっかり鬱から抜けておりました。もっとダイヤモンドが欲しい(笑)お金が欲しい(笑)働かなければ(笑)これを、私はダイヤモンドセラピーとよんでおります(笑)ダイヤの力で導かれました。(やばい、今ググったら、『ダイヤモンドセラピー』という言葉があった(汗)これは私の完全なる造語というか、私の経験に名前をつけただけですので。。あしからず・・)

ダイヤは絶対不滅・全能・根気と忍耐などの意味を持つ最強のパワーストーンです。また、努力のチカラを与えてくださるそう。ちなみに、私はイエローダイヤモンドで、希望・金運・絆を象徴する守護石だそうです。 心を明るくして、前向きに生きるパワーを与えてくれる石だそうです。

そこで一回生まれ変わった気がしています。そこから、アルバイトで入った職場で、特に意識もしていなかったのに、結婚までたどり着けました(笑)30歳を少し超えたあたりでの結婚でした。

ただ、そこから子供はすぐにできると思っていましたができません。年齢も35歳になっておりました。念の為に、という感じで気軽に婦人科へ行きました。不妊治療というのでしょうか。とりあえずは検査から入りました。

私は大の病院嫌いでして・・・。気軽な気持ちで検査に挑んだものの、気分はどんどん落ちて行きました。特に悩んでまではいなかったのに、いつの間にか大きな悩みになって行きました。

また、検査結果は特に問題はないような雰囲気で、検査はステップアップして卵管造影検査をしましょう、となり、それは痛みを伴う検査と知って、もう恐ろしくなりました。

検査の同意書で、まれにショック死する事もあるけどご了承ください、的なものにサインをしないといけなかった時、気持ちは完全に張り裂けました。(後から聞くと、友達は結構皆さん卵管造影検査をされていました。わりと普通の検査、なんでしょうか(笑)

病院嫌いだし、痛みが伴う?また、不妊系の病院が、どうも金の臭いがするようなところに行ってしまい、先生への信頼感も最初からなかった事から(やや脅してくる感じありました。あなた、この年齢で考えているなら、急いで、、みたいな?)

いやだいやだ〜、死ぬかもしれない検査をしてまで子供が欲しいのか?検査をするだけで死ぬなんて嫌だし!と、もうこんな思いまでしていらない〜!また、プチ鬱状態に突入しそうでした。

不妊治療というより、治療の段階まで行く手前で、全てをやめてみる、という答えを出していみました。病院にはもう行かないぞ!と。不妊系の病院=金儲け主義、みたいな思い込みにまでなっておりました。良い先生と出会えなかっただけなのかもしれません。

しかし、そこからが長い長い、辛い辛いトンネルを歩いていた気がします。子供は自然に授かれば良い、くらいに思っていたけれど、基礎体温をつけ、タイミングを測って挑戦しておりました。そして、毎月の生理で妊娠していない事がわかって落ち込む、この繰り返しを延々と続けておりました。

生理が来たら、新しい生理用ショーツを買おう♪こんな事で前向きな気持ちになってみたり。また、チャンスは毎月あると思うと、ゲーム感覚で楽しいではないか?と思おうとしたり、色々気持ちの上で工夫はしようとしていましたが、そこからは、芸能ニュースや、職場、友達の妊娠など、聞く度に気分がどん底に落ちるのでした。

めでたい事なのに、お祝いしてあげられない自分の小ささに落ち込みました。また、友達や親戚の「赤ちゃんは?」という質問にも、深く傷つきました。悪気なく聞いているのはわかっていましたが、悪意にとらえていました。そんな自分がまた、嫌になりました。

こんな自分を励ましてくれる友達にも、いらだちを覚えました。「私もそんな怖い治療してまでは子供欲しくなかったかな」など、子供を持つ友人から、そのような慰めの言葉をもらっても、それは私をさらに傷つけるものでした。信頼できる知人で、私を気遣ってくれているのもわかっただけに、本当に辛かったです。

どんどん友達と距離をとるようになりました。また、義父母にも合わせる顔がない、そんな気持ちにもなりました。夫の事を考えたら離婚した方が良いのかも、と思いました。義父母は口には出しませんでしたが、孫を期待している様子は窺えましたので、里帰りがまぁ辛かったです。

そんな中、夫の転勤が決まりました。友達には告げずに、そっと引っ越しました。まぁ、その頃には周囲とも疎遠になっていたので、伝えるタイミングもありませんでしたが。年賀状すら書いておりませんでした。

また、それでも来る毎年の年賀状が、本当に辛かったです。赤ちゃんの写真など、家族が増えましたなど、そういうお知らせを目にしないといけない元旦が、憂鬱で恐ろしかったんです。年賀状なんてなくなれ〜!と何度も思いました。未だに年賀状はあまり好きではありません。

それでも、転勤先では随分と気分転換となりました。友達や家族とも、物理的に離れた事が気楽でした。そして、愛犬を迎えました。我が子のように育てております。この子のおかげで、かなり救われた部分がありました。今も側にいてくれております。11歳になりました♪大切な家族です。

アラフォーにさしかかり、毎月何度も諦めたくなる中、辞めるタイミングは何?と思うようになりました。生理が来た時の地獄の気分と、そこから抜け出るまでの繰り返しは、なんとも辛いものでしたから。でも、辞めたい気持ちと同時に、諦めきれない気持ち。

子供がどうしても欲しいなら、養子縁組とかすれば良いのか?赤ちゃんポストの話なども調べていました。いったい、どうしたらこのトンネルから抜け出られるのか、、そんな日々でした。

そんな中、健康診断で貧血でひっかかって再検査となりました。アラフォーでした。我が母は糖尿病という事から、糖尿病かもしれない、でも、婦人科も疑わしいので、両方検査するよう言われました。

とりあえず、その病院に婦人科がありましたので、婦人科の予約をとりました。検査をすると、どうも子宮筋腫がある、しかも、大きなサイズで。大きな病院でMRI検査をして欲しいという事になりました。

しかし、その際に、男性医師でしたが、私にこう言いました。

『あなたの年齢を考えても、もう子宮を全摘した方が良いでしょう。子宮がんのリスクもありますし、そうした方が良いですね』と。

ああ、終わった〜〜。これで、終わったんだ、、、私はようやく諦める事ができるんだなぁ、、と同時に、夫に電話して言いながら泣いたのを思い出します。

ただ、夫は、やはり欲しかったんでしょうねぇ。これで諦めないといけないのかどうか、もう一度先生に聞きたいとなり、MRIの検査をしに大病院に一緒に行きました。まずは診察を受け、MRIの予約を入れましたが、その際も男性の医師で、同じ事を言われました。

『MRIの検査の日までに、どうするか考えておいてください』

それは、子宮を全摘するかどうか。という事でした。全摘した方が良いのか、と聞いたら、「その方が良いです」とおっしゃいました。覚悟を決めてこい、と言われているわけね(T_T)そう思っていました。

そして検査当日、その日は女性の医師でした。MRI検査の後に説明を受けましたが、子宮がもう真っ黒?にうつるというか、ほぼ筋腫で膨張しているという状態。妊婦みたいなお腹になっていたのは、ただの中年太りだけではなかったようでした(汗)

先生に正直な気持ちを言いました。「実は、まだ子供が欲しいと思っていまして、でも、前に先生に子宮を全摘した方が良いと言われたのですが、子供が諦められないです。でも不妊治療とかは怖いので・・・」と言うと、先生は「筋腫だけ摘出すればいいですよ。そして、タイミング療法で気が済むまでやってみては」と。

え〜〜〜〜〜!!いいんですか???でも、子宮を全摘した方が良いと2名の男性医師に言われて、、と言いましたが、女医さんは毅然とした雰囲気で筋腫核出手術ができますし、まだ子供を諦める事はない、と言ってくださいました。リラグマ、それを聞いて、わんわん泣きました。

そして、やっぱ子供が欲しいと思っていたんだなぁ、、と、思ってしまいました。今までは、夫が欲しがっているから仕方がないとか、人のせいにしていましたが、自分もやはり欲しかったんだなぁと、つくづく思い知らされる瞬間でした。

そして、筋腫核出手術を経て、術後半年以上は子宮を休め、そこから妊活開始して行きましょう、という流れでしたが、その計画通りにすぐに授かる事ができました。筋腫を取り除き、子宮内膜が生まれ変わった事が良かったようでした。先生も、子供ができやすくなるかもしれないとおっしゃっていましたが、まさにそのとおりでした。

術後半年以上を超え、最初のタイミングをはかって、術後の再検査の日に「妊娠しています。おめでとうございます」と言っていただく事となりました。そして、そこからも、まぁ・・色々とあるのですが(汗)ようやく母になれました。41歳の猛暑でした。

そこから今現在までも、まぁ、色々な事がありました。いやぁ、ありますよねぇ。色々な事が(笑)幸いにも授かる事ができて、この長いトンネルを抜け出せるかたちとなりましたが、そうならなかった場合の事は、もう想像ができません。

私は、この長く辛い経験があるので、絶対にこのあたりの事を人に聞く事はしません。不妊関係の映画やドラマを観たら、その時の痛く辛い気持ちがフラッシュバックします。

しかし、子供を授かったから抜け出せたトンネルですが、トンネルはこの先も沢山あると思います。今現在までも、何度かプチトンネルをくぐりました。ここまで辛いトンネルではありませんでしたが、確実に、トンネルはあります。乗り越える力を、少しずつ身に着けて行けたらなと思うばかりです。

人生山あり谷あり、楽あれば苦あり、でも、その繰り返しが人生なのでしょうね。どんなに辛くても、また山を超える時が来ます。どんなに苦しくても、楽しい時もやってきます。その感覚を心に刻みこんで、

明けない夜はない!

そう信じて生きて行きたいと思っております。辛い時こそ、さぁ、あとは楽しくなるだけだね、、と言い聞かせて、前進あるのみのリラグマです。

最後に、この記事を目にされて、少しでも嫌な想いをされた方には、大変申し訳ない気持ちです。ただ、明けない夜はない、そこだけは信じて進んでもらえたら、、と、無責任な発言ではありますが、そう願わずにはいられないリラグマです。

Part2へつづく・・・

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?