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takt op.Destiny  ED 考察       アンナの表情の謎

あの広井王子が関わっていると聞いて(別に特にファンではないが)

takt op.Destiny を見始めた。EDが前日譚なのかと思い見ていたら

スクリーンショット (206)


 んん?!  明らかにこの場面だけおかしい。

この美しいEDの流れで何故こんな浮かない悲しげとさえ言える表情なんだ?


その点を考察、あるいは考察という名の深読みをしてみようと思う。


その前に注意を。

考察が当たっていても、もしくは外れて妄想だったとしても

責任はとれないので悪しからず。


まず大雑把に考えられるのが

1.本編には出ない設定が反映されている

2.本編を見ていたら読み取れる設定が反映されている

3.本編の何かが暗示されている


というのがよくあるパターンだと思う。1と2については

現在の第四話の時点で考えてもわからないので

3を中心に気づいた順に時系列で考えていこうと思う。



・ポイント1

スクリーンショット (206)

やはりこの場面がどうしてもおかしい。

白い紙に一滴だけ垂らした黒いシミのように明らかに浮いている。

つまり制作側の意図はタクトたちではなくアンナを中心に意味をこめていると取って見ていく。


・ポイント2

スクリーンショット (203)


アンナを中心に見直してみたら、この場面も微妙におかしい。


あの世話焼きのアンナが食事の用意を三人分ではなく一人分しか用意していない?

タクトは音楽に夢中で今は食べないのはわかっていても

コゼットの分くらいは用意してもいいような?



・ポイント3

スクリーンショット (195)

スクリーンショット (196)


おかしいと思って最初から見直したらここは明らかに変だ。

コゼットだけが車に乗っていない。

もちろん死角にいるのかもしれないが…。



・ポイント4


スクリーンショット (210)

スクリーンショット (207)


だだっ広い何もない道。壊れておそらく廃棄されたモーテル。

これらが示すのは人がいないという事。

なのに音楽を聴きに突然(に思える)これだけの人が集まっている。


これで方向性みたいなものは全部出たと思う。

これらを全て満たす仮説ができた。


それはコゼットはこの場にいないという事。


「ハァ?コゼットはちゃんと描かれているだろ」と思うかもしれない。

絵画の表現技法には、いや絵画だけに限らないけど

「そこにいない物や者を描くことで想いをたくす」という技法がある。


よくよく見たらコゼットはほぼ物理的になにもしていない。

ただ眺めていたり座って微笑んでいるだけだ。

スクリーンショット (198)

スクリーンショット (200)

スクリーンショット (204)


つまり元々いないコゼットを後から足したという見方でも

成り立つとも言える。

EDが一枚絵の絵画風であるというのもそう考えると意味深に思える。


そしてこの美しい演奏風景


スクリーンショット (207)


観客は誰一人として顔が見えない。それどころかうっすらと透けている。

これは実在の観衆ではないという表現に思える。

またこの場面、星が降り注いでいるように美しい。

あまりにも美しすぎる。まるでこの世のものではないかのように。


そしてその場面で中心となって微笑んでいるのがコゼットだ。

観客は実在しないとしたらその中心のコゼットは?


もちろんこれらは確定ではなく、むしろただの深読み、妄想だ。


でもアンナが悲しそうな顔をするのも

食事を一人分しか作らないのも(おそらくタクトの分は後で作るのだろう)

コゼットが車に乗っていないのも

ありえないほどの美しすぎる演奏風景も

コゼットの不在を中心に考えると全て説明がつながってしまう。


takt op.Destiny のOPも物悲しい曲調で歌詞も別れを思わすものだし

本編でコゼットはあんな風になった。


このEDがコゼットがムジカートになってしまったのを

示しているだけならいいのだけど。


私はハッピーエンド派なので、でも不穏は感じずにはいられない。

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