眼鏡とブレイクダンス

私は眼鏡ををかけている。

目が悪い事に定評のある大和民族はやはり眼鏡の人口もまた多い。

世界でこんな下らない事を本当に言われているかは謎だが、
事実、何人かで集まって飲んでいてフッと気づくと眼鏡率が75%を超えている事は少なくない。

しかし、そんな中でも私はカナリ眼鏡をかけていると自覚している。

カナリ眼鏡をかけている、という文章自体、意味不明なのだが、私にはその自負がある

私はブレイクダンスをする時も眼鏡を外さない

自負の根拠はたったこれだけだが、眼鏡をかけてブレイクダンスをする人間はそういるものではない。

ここまで世界中に蔓延ったブレイクダンス、その動きの特異性と人口、目が悪い事に定評のある日本人、日本人の中ではそれなりに認知されている存在としては、カナリ眼鏡をかけている、といっても過言では無い筈だ。

ぶっちゃけ眼鏡をかける事にコダワリがあるわけではなく、ブレイクダンスにハマり始めた当時、単純に金が無くコンタクトレンズに切り替えるという発想が産まれなかっただけだ。

眼鏡が壊れてもセロテープで巻いて使い続ける狂人さは今では絶対に真似できない。

壊れる理由もまたブレイクダンスであるなら、外してやれよ、と思われたかもしれないが、マジに目が悪いのだ。

非眼鏡の人間にはわからない視界かもしれないが、喋っている時に相手の表情がボヤけて見えないというのは、想像以上に不気味なものなのだ。

なんて事のない内容について話していても、相手の表情が見えないだけで、楽しんでいるのか怒っているのかすらわからないというのは、じわじわと不安になるのだ。

要はそのくらい目が悪いので、外で眼鏡を外すという行為は、水中で目を開けた時のような状態に陥るようなものなのだ。

したがって、私はブレイクダンスの時も眼鏡を外さない。




そんな私も、眼鏡を自主的に外すタイミングが二つある。

一つはバンジージャンプの時だ。

言わずともがな、バンジージャンプで眼鏡なんて着けていたら、ひとたまりもなく振り落とされて川の藻屑となるだろう。

係の人に促されるがままに飛び込み台の横にある小屋に眼鏡を預けていざ橋を渡る。

水中を歩くような状態で装具にロープをつけられ、まさに飛び込む瀬戸際までバリケードにシガミ付きながら連れて行かれる。

あれは40mのバンジーの時だった(20.40.60.100m経験済み)

「3.2.1バンジー」という、テンションと声量は高くも、小慣れて退屈したような係の人の合図で、結局は自らのタイミングで飛びこまなければならない。

実はバンジージャンプの醍醐味は、落下した底では無く、この飛んで足が離れた瞬間にある。

バンジー台を足の裏が離れた瞬間、
脳では無く身体が、理性では無く本能が

「わたしは今、空中40mに投げ出された肉の塊です」

という事実を理解する。

ゼロコンマゼロ数秒後、これもまた脳の指令では無く腹の胃袋の方から、ダムの放水のように叫び声が炸裂する。

ちょうど満腹に飯を食った後に、クラブでヌルくて不味いビールを飲み、吸いたくもない無数の煙を浴びて気分が急下落してトイレに駆け込んで吐いたゲロのように、身体の内側と外側をひっくり返したかのような吐瀉物に似た叫び声が自律で飛び出てくる。

理性で叫んでいないので、赤ちゃんの泣き声のように喉の出しうる最大出力で叫ぶ

その後数秒間落下を続けるのだが、その時私はあるとんでもない体験をした




目が完全に良くなったのだ




水中にいたかのような視界はクッキリと輪郭を描き出す。

それどころではなく、谷底の川の流れも、森の葉の一枚一枚すら認識出来るような感覚になったのだ

多分信じてもらえないかもしれないが、アレはある種の臨死体験であり、所謂火事場の馬鹿力というものなのだと思う。

ジャンプ漫画の主人公は基本的に死ぬ(とか、近い状態になる)と強くなる

アフリカ(多分)の部族は成人の儀式にバンジージャンプ的な肝試しをする

脳内麻薬、ドーパミン、気、チャクラ、念能力etc..の全てに合点がいく瞬間だった。

帰り道は飛んだ全員が異様なテンションの高さでのドライブとなる。

なぜか、バンジーの帰りは温泉と蕎麦を食うのが決まりになっている。

その頃にはプールの授業の後の子供のように体力を使い果たして眠くなってくる。



あれは何となく、目が悪くて良かったと思える数少ない体験だったと思う。

もちろん眼鏡でなくても、バンジージャンプはおすすめです。何かに行き詰まった時などにどうぞ。




もう一つの眼鏡を自主的に外すタイミングは、もう少し穏やかで

銭湯だ

眼鏡の同志でも知らない人もいるかもしれないが、眼鏡は湯に浸けてはならない。

ガラス製であれば問題は無いらしいが、安物のプラ製のレンズは湯に弱いらしい。

レンズを洗う時も、湯ではなく冷水を使おう。

週に2〜3度は銭湯に浸かりたい入浴erな私は、脱衣所ではだいたい15秒くらいで全裸になれる。

やはり最後に外すのが眼鏡だ。

戻ってきた時に探さないで済むように、荷物を片端に寄せて、見つけやすいように眼鏡を独立させて置く。

上述の通り、眼鏡を外した私は相手の表情を判別出来ない。したがって目の前の人間が知り合いかどうかなど分かるはずがない。

タナチューとかバニラなら髪型でだいたいわかるが、
知り合いと勘違いしてニヤニヤ近づいて人違いであった時の相手の感情を察すると、洗い場以降は一人黙々と入浴を楽しむのが無難である。

というか、銭湯ではあんま人と喋りたく無い。表情も分からないし、いや、別に良いけど。まあ、ケースバイケース。



温冷浴を二、三セットこなすと頭がボーっとしてくる。
元々見えていないので、視界がどのように変化しているかは謎だが、所謂目が回っている状態まで持っていけると、例の現象が訪れる

私は銭湯のタイルフェチである。

別に、昨今の銭湯ブームのミーハーに差をつけたくて突飛で意味不明な事を言っているわけではない。

銭湯のタイルに注目し始めたのもまた、目が悪かったからである。

先に書いたように、温冷浴を完了させると目が回る。
非眼鏡の人間なら特に感じているのだろう。

水風呂の後にボケーっとする時間、色々なシチュエーション、色々なスタイルがあるかもしれないが、
その時は、明日のジョーのラストのように、いや、もう少し前傾した状態でボケーっとしていた(なんとなく「整う」と言いたくないのでボケー)。

その状態から見える景色はタイルのみだ。

四角いタイルは縦に横にと同じ柄で規則正しく並べられている。

それを温冷浴で脳を溶かされて目が回ったような状態で眺める。



目が良くなるのだ



目が良くなると言うと少し違うのだが、タイルが何故かクッキリと見える塩梅があるのだ。

寄り目と平常目の中間の、良い塩梅のトコをキープ出来ると、この現象は起きる。

その状態だと、タイルがクッキリ見えるだけでは無く、立体的に見えたり巨大に見えたりする。

つまらない種を明かすとすれば、所謂トリックアートのそれなのだが、たかだかタイルごときにあそこまで真剣にボケーっとするには、一度脳を溶かす必要があるのだ。

この現象にも、起きやすいタイルと起きにくいタイルがある。

あまり柄が複雑なタイルだと起きづらい。

白いタイルかつ、溝が綺麗に清掃されていると起きづらい

シンプルな柄、黒カビで溝がハッキリと確認できると、この現象は起きやすい

むしろ溝だけが格子のように浮き出て見えたり、ちょうどインターステラーで描かれた四次元空間を思い出させるような見え方など、塩梅ごとに違った見え方がする。

そして不思議な事に、「よし、今日はタイルを見よう!」などと気味の悪い意気込みを持って湯に浸かると、なぜか良い塩梅をキープ出来なくなるのだ。

あくまで目的はリラックス、目標を欲張らずに目的に殉じて初めて見える景色だ。

これは所謂、スポーツでいうゾーンとか、般若心経の説く「空」なのかもしれない、などと無駄な事を考え始めると、途端に水中のようなボヤけた視界へと引き戻される。

でも、多分それに近いものなのだとは思う。

とにかく、タイルが織りなす四次元空間を覗き込んでいる時、私は異様な集中力を発揮する。



結局、何が言いたいかというと、普段眼鏡をかけている私にとっては、眼鏡を外した世界というのは少し特別な空間になると言う事だ。

ここで話をブレイクダンスの話に戻すと、ブレイクダンスが理由で何本も壊してきた眼鏡だが、キャリアを積むにつれて、一年に一本壊れていたのが、もう何年も壊れていない、といった事になっていく。

「動き」とは「固定」との対比である、
とすると、眼鏡を落とさなくなった私はどうやらブレイクダンスが上手くなったと言えるらしい。

余程のことが無い限り、私はブレイクダンスの時でさえ眼鏡を落とすことは無くなった。

これはもう、カナリ眼鏡をかけている、と言って十分ではないだろうか。

おそらく私は眼鏡とともに認知されている事だと思う。

「眼鏡のあいつ」
「眼鏡のフットワークのやつ」

加えて、「陸上」というアホな名前でブレイクダンスなんてやっているものだから、非常に覚えていただきやすいパッケージになっているのかもしれない。

しかし、眼鏡をかけている理由は学生の頃の貧困であって、特にコダワリがあるわけでは無いので、自分が眼鏡キャラであるアピールをしてきたつもりは無い。

一部の野蛮な先輩に「おい眼鏡!」と呼ばれる以外、特に眼鏡についてイジられる事もほとんどなく(大阪ではマドラーにされた)。眼鏡について触れられるとすれば、「踊ってて外れないんすか?」くらいだ。そんな時は、上のように、昔は外れてた、と答える。

そんな私が、自分が完璧に眼鏡キャラである事を認識した出来事がある。

どこでやったかも忘れたが、それはSEIJIさんがMCを務めるバトルだった。

それの決勝だったか、何か大事な局面。

私にはもうネタが残っていなかった。

頭の整理がつかないままにバトルは始まった。

1ラウンド目、決勝戦としては心許ない残存ネタを使い果たす。

相手のラウンド、相手もかなり疲弊しているとはいえ、格上のそいつは私のラウンドをジワジワと締め殺していく。

(あー、このままだと普通に負けますね)

何故か、冷静になる自分があらわれた。
続いて、

(どうせ負けるなら良いムーブしたいすね)

と語りかけてくる
そして眼鏡の俺は気付く

(これは、銭湯のアレに近いやつだ!)

相手のラウンドが終わる、一度だけ深呼吸をしてたまたま目に入った知り合いの若衆に眼鏡を預ける。

相手の顔も分からない、一度ターンしただけで、前後という概念が薄まる。

サイファーを囲むオーディエンスとの距離感も曖昧になる。

しかし、変わらず聴こえてくる音楽と自分の身体だけを頼りに踏むラストラウンド。

既出のネタかどうかの判断力は霧散。
盛大にトゥワイスをしまくる。
DJの二枚使いのようにループするたびにバイブスが増幅される。

開き直ったお陰で最速で動けるネタを順番に踏んでいく。今ならイケると新ネタを繰り出してもキマる。

バトルに勝つためでは無い、自分が楽しむためだけのブレイクダンスを自分の身体が切り出していく。

結果は忘れたが、アレは目が悪くてよかったもう一つの体験と、バトルシステムの核に触れたような体験の入り混じったものだった。

踊りながらでも、研ぎ澄まされた感覚はしっかりとSEIJIさんの

「うおー!!眼鏡外したー!!!」

を聞き取った。

逆説的に知る。

私はカナリの眼鏡キャラらしい。

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