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眼鏡とブレイクダンス

私は眼鏡ををかけている。 目が悪い事に定評のある大和民族はやはり眼鏡の人口もまた多い。 世界でこんな下らない事を本当に言われているかは謎だが、 事実、何人かで集まって飲んでいてフッと気づくと眼鏡率が75%を超えている事は少なくない。 しかし、そんな中でも私はカナリ眼鏡をかけていると自覚している。 カナリ眼鏡をかけている、という文章自体、意味不明なのだが、私にはその自負がある 私はブレイクダンスをする時も眼鏡を外さない 自負の根拠はたったこれだけだが、眼鏡をかけてブ

    • 言語とブレイクダンス③

      前回に引き続き言語とブレイクダンスの関係性について書いていきます。 前回記事のリンクを貼ると、謎に一番ケツまで追いやられてしまっておりますが、前回、前々回記事のリンクを貼っております。 記事の途中でカッコよくリンクを貼りたかったのに、、なんででしょう、解決法を知っている方、教えてください。 では第三回 「言葉にならないのがブレイクダンス」であるのに、なぜ「ブレイクダンス→言語」に繋がるのか、について、今回は書きのこしていきます。 前回「みんな違ってみんな良い」という文言

      • 言語とブレイクダンス②

        前回は 言語とブレイクダンスの関係は ブレイクダンス≒言語 ブレイクダンス≧言語 ブレイクダンス>言語 ブレイクダンス≠言語 という変遷を辿るという話、途中で酒の話をしつつ、飲み会で言われたくない台詞の事を書いたところで終わっていました。 では、なぜ「言葉にならないのがブレイクダンス」と言われると、私はそこから先何一つ話をしたくなくなるくらい意気消沈してしまうのでしょうか。 前回の記事通りであれば、「言葉にならないのがブレイクダンス」という文言はブレイクダンスの特殊性を多

        • 言語とブレイクダンス①

          ブレイクダンスと言語、 この組み合わせは今も昔も大いに語られている話題に思います。 一昔前はtalking shitという言葉が象徴するように、 ブレイクダンスに言語は要らない ブレイクダンスがむしろ共通言語だ 言葉に出来ない部分がブレイクダンスだ といった方向の考え方が趨勢であったように思い出されますが、最近の潮流を眺めていると ブレイクダンスには言語化が必要だ という方向へも考えを巡らす方が増えているように感じます。 これらをとりあえず ブレイクダンス≒

        眼鏡とブレイクダンス

          退屈とブレイクダンス

          ある本で、「退屈」と「暇」は似て非なるモノだと読みました。そもそも暇とは人間が生存競争や労働環境から自らの努力で勝ち取ってきた自由の事を指し、退屈とはその全てに対し変化が起きないことへの「飽き」である、といった論旨であったと思っています。 私達は今、暇なのでしょうか、退屈なのでしょうか。 その本は続いて、現代ではこの退屈すら消費構造に組み込まれている、との事でした。 退屈した人間にそれなりの刺激や変化を与え、消費をし続けさせる 読んでザックリ感じたままに書くとこんな事

          退屈とブレイクダンス