利他と利己って一緒じゃない?

こんにちは。久ぶりに記事を書きます。書いていないときは、自分と葛藤やプロジェクト関係で時間がありませんでした。その間にも、色々と考えることがあってネタは溜まっているので、少しずつ吐き出していきます(多分ン)。
さて、今日は記事タイトルで述べたことを書いていきたいと思います。 まず、利他と利己について考えることになった経緯を書きたいと思います。

昨夜、友達(Aちゃん)と僕でご飯を食べに行きました。友達のバックグラウンドについて先に情報をまとめておきます。

友達(Aちゃん)のバックグラウンド
・社会人1年目(障がい者関係に関わる仕事)
・来年1月~3月で旅に出る(インド)
・旅の目的、マザーハウスへのボランティア
・学生時代もボランティアへ積極的に参加
・3年後にJICAで海外派遣を望んでる
・将来的には、発展途上国の村で障がい者支援を行いたい

Aちゃんは、自分から誰かの力になりたいと思って積極的に行動に起こせる人だと僕は思います。そんなAちゃんとご飯を食べている最中に、こぼれる様に質問と問いを混ぜたような問題が飛んできました。

「ボランティアって、なんでするんだろう?」

驚きで箸が止まってしまいました。驚いた理由として、二つあります。1つ目、僕に聞いたこと。2つ目、ボランティアに対して悩んでいること。驚いた理由をそれぞれ解説していきたいと思います。

・僕に聞いたこと

ボランティアがあまりないしたことがない僕に対して聞いてきたことに驚きました。なぜなら、どちらかというとボランティアの恩恵を受ける側やお願いする側にいるからです。パラ陸上大会一つとっても、恩恵を受けています。大会は、多くの学生ボランティアのおかげで成り立っています。ボランティアがいないと大会自体の運営がなりたいで、記録を取ることが不可能な状況です。また、イベント企画・運営するときもボランティアがいることで成り立っています。イベントの企画・運営に携わることが多い僕は、ボランティアをお願いすることも多いです。だから、「ボランティアをする」という経験がない僕に対して質問をしてきたことに驚きました。

・「ボランティアをする意味ってなんだろう」と悩んでいたこと

ボランティア経験数が多いAちゃんだからこそ、質問に悩んでいないということを思っていました。僕自身、なんでボランティアってするんだろうかということを少しだけ考えたことがありました。ですが、僕は先ほども述べた通りボランティアをやったことが少ないので考えても出てこなかったので当時は諦めました。だからこそ、経験数が多いAちゃんは質問に対して解答を持っていて悩んでいないと思っていました。

「ボランティアってなんでするだろう?」というAちゃんからこぼれる様に出た問題から続いた会話と得た気づきを書きます。

会話
Aちゃん:ボランティアってなんでするんだろう??
僕:・・・。どうして、そんなこと思うの?
Aちゃん:ボランティアをすればするほど、わからなくなる。誰かのために何かをしたいと思うからやるけど、人のためになってなるかわからん。でも、ボランティアをすることで自己肯定感はあがるんだよね。だから、ボランティアって自己満足かな??
僕:なるほどね。うーん、難しいね。ちょっと疑問なんだけど、ボランティアってそもそもの語源ってなんだろう?知ってる?
Aちゃん:知らない。
僕:調べてみようっと。「ボランティア”の語源は、ラテン語の「ボランタス(Voluntas):自由意思」、フランス語の「ボランティ(Volunte):喜びの精神」、英語の名詞では「ボランティア(Volunteer):志願兵」、動詞では「自発的に申し出る」という意味です。 日本では、自分の意思で自発的に行なう社会参加活動のことをさしています。」(Wikipedia参照)」だって。
Aちゃん:結局は、自己満かー。
僕:自己満でも、誰かのためになってるんじゃない?僕は、ボランティアがいることで助かるし感謝してるよ。最初に言っていた、自己肯定があがることだって、誰かに承認されてるからあがるんじゃない。僕の持論だけど人は、自分を客観していないと肯定感が上がりづらいと思うんだよね。客観は難しい。でも、第三者からの反応だったり、承認や肯定を求める。そういう意味では、ボランティアで自己肯定感が上がるというのは、誰かに承認・肯定されているんじゃないの?だから、自己満でも人のためになっていると思うよ。
Aちゃん:なるほどね。

会話をしている中で感じて気づいたことがありました。ボランティアをしている人達の多くが自分の時間を他人に捧げて他人の利益を出すためのお手伝いをやってる感じだよなと・・・。「誰かのために」って想いが強い人たちだ。つまり、利他の精神を象徴する活動だよね。でも、する側の中には本当に相手のためになっているのかって疑問を抱く人もいるんだよね。そして、自己満だなって思っている人がいる。そういう人は、利己の追求に対して罪悪を感じてるのかもしれないな。というか、利己を追求も第三者との関りはあるわけで、その結果が第三者にも影響はあるわけじゃん。もしかして利己を追求した結果の先に、利他の精神があるじゃない。利他の精神も極まれば、利己を追求することにつながるんじゃない。ということは・・・・

利他と利己って同一直線上にあり、それって一緒じゃない?

はい、こうしてタイトルに行きついたわけです。でも、自分の中で仮説の段階なのでまだ確証はありません。今後、こういうことを意識して生活をしたときにどういうモノの見方や人の行動を観察していきたいと思います。でも、自分の中の新しい概念として生まれたものがあります。

「究極の自己満は、究極の利他になる可能性を秘める」

自分的には、面白い概念だと思うので探究者として概念を仮説として検証を突き詰めていきたいと思います。

応援よろしくお願いします!!