抜けた記憶、流されるまま


学校から帰ると父だけがいた。
「もうお母さんもあいつも帰ってこないからな」と言われた私は、適当な返事をした。


自分の部屋に入り、携帯を開くと「お父さんにバレないように駅まで来て」 とメールが入っていた。
次女からだった。


わかったとだけ返して、今日から暫く帰って来れなくなるだろうことを予想した私は、制服のまま教科書の全てと着替えをリュックサックに詰め込んで、父がトイレに入った隙に家を飛び出した。最寄りのひとつ先の駅まで歩いて20分ほどの距離を、追いかけてくる父の姿を想像しては怖くなって何度も振り返り、走った。


聞かなくても、次女の所にいるだろうことはすぐわかった。家を出て行った所で、行き場のない2人が頼る先は、次女以外いない。

当時の次女は20代半ばで既に2度の離婚歴があり、その時は父とそう変わらない年齢の社長さんと付き合っていた。一人暮らしには広すぎる4LDKのマンションに、白いまだら模様のダックスフンドと住んでいた。


駅に着いてすぐタクシーに乗った次女に名前を呼ばれ、乗り込むと車内はとても涼しかった。


ことの内容は、兄が働かないことでいつもの様に母が庇うと父が激昂し、殴られ、出て行けと言われて2人は家を出た。母は離婚も考えているが、その先のことまでは考えていない。兄が面倒を見ると言ってはいるが、無理だろう。
リクだけを父の傍に残すのは心配だから、当分の間、うちにいたらいい。

次女が話すことを聞きながら、段々とその声が遠のいていった感覚だけは覚えていて、その状況に全く現実味が無かった。状況に流され従うことしか出来ない自分が何かを望んだところで叶うはずがないこともわかっていたからこそ、不安みたいなものも、少なかった。

次女の家に着いてからは、私以外のそこにいる家族がこれからについて話していた。
母は終始悲劇のヒロインで、兄は口だけ上等な嘘付きで、次女は責任感の強い偽善者だった。

その日は平日の中日辺りで、翌日の学校のことを考えると校門に立つ父がいた。次女が連絡を入れたかどうかも聞けなかった私は、校門の前で鬼の形相をした父が私を怒鳴りつけ、腕を引っ張り連れて行かれる想像ばかりが繰り返され、どうにか休む方法を考えても思い浮かばず、ただひたすら嘔吐し続ける自分を想像してはそれが現実になることを強く願いながら布団に入り、目を閉じた。




深夜、猛烈な吐き気に襲われ、飛び起きた。
シンクに吐いた。鈍く脈打つように込み上げてくるものが胃液だけになっても治まる気配はなく、閉じていられない口から垂れ続ける唾液を見ていた。

朝には私の白目は黄色くなっていて、吐き気は落ち着いたものの食欲はなく、病院へ連れて行かれたけれど、ストレスだろうということだった。

その週の日曜には次女と母と私の3人で家へ帰った。母は兄と出て行ったが、兄は次女宅に母を送り届けた後、何処に行ったかわからない。母と私だけが次女の家にいたという口裏を合わせて。

その後の記憶が面白いほどないのだ。

次の記憶は、玄関先で纏まった荷物が入ったダンボールを抱えた私に、「ベッドとかは持って行かなくていいの?」と言う母の言葉に傷付いたことと、1人で乗った電車の車窓から流れていく景色と夕日がとても綺麗で、侘しかったこと。
電車に揺られながら、母は私の痕跡全てを無くしたかったのかもしれない。もう帰ってくるなという意味だったのかもしれない。そう考えると、鼻の奥がツンとして、静かに泣いたこと。


それは私が中学1年生の、秋に入った頃。
何故か次女の家に住むことになって、電車を乗り継ぎ、地元の学校に通うことになった。

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