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障害は補完する道具と社会の受容でかなり減るもの

今年は桜🌸が満開になった後、気温が下がりました。そのおかげで花が長持ちしています。9日にあった春の嵐にも耐えて、今もなお美しさを保つ桜を褒めてあげたいですね。

さて、……。

実は、私は指定難病持ちである。ただ幸いなことに、今のところ生活に支障が出ることはない。

とは言うものの、体のある部分に負荷を掛け過ぎないようにするよう医師から指導されている。状態の悪化はゆっくりではあるが止められない。

症状が出たら手術で対処が基本だが、それもケースバイケースで絶対できるものでもないらしい。その場合、歩行が困難になる可能性がある。

だから、まずはその時の到来をできるだけ遅らせるため、当該部分に負荷を掛けないように気をつけている。これは生涯続くものと覚悟している。

そんなこともあって、私自身も障害とは隣り合わせに生きているとの受け止め。ただ、障害というものの受け止め方も昨今ではだいぶ変わってきたと感じる。

障害は、ひとことで言えばやりにくさや生きにくさ。これは持って生まれた能力そのものではない。それでも障害は、低い能力を持って生まれた個人の問題として片付けられてきた。できないのは個人の生まれつきの能力によるものとされたのである。

その風潮は今でも残っている。しかし、持って生まれた能力が関係する点は否定しないものの、それは個人に帰責するものではないはず。選択肢を与えられて自ら選んだのではない以上、個人のせいではないのは当然である。

そして個人の能力を補うものとして、例えばめがねや補聴器等といった道具や器具を作ってできることを増やしてきた。昨今のICTの進展により、今までできなかったことも可能になってきた。

後はそういうものの活用について寛容であること、能力の一部が不足する人を健常者と分け隔てなく受け入れること、といった社会の側の受容的な態度が大切だと考える。それがやりにくさや生きにくさを大きく軽減させるのだから。

そもそも、個人が努力して克服できるものなら障害とは言わない。個人がいかに努力してもできないのにできるようになれと言うのは、理性的な態度とは言えない。無理強い以外の何物でもない。

やる気を問題にする人もいるかも知れない。でも、人間は誰もが生来的にできるようになりたい気持ちを持っていることに思いを致すべきだろう。「絶対にできるようになるものか」と固い決意を持った人に、私はこれまで会ったことがない。

そして、親が甘やかせているという批判も違和感を覚える。「這えば立て 立てば歩めの 親心」という川柳があるけれど、この親の気持ちは普遍的なものだろう。

そういう個人の側のアラを探すのは、多様性が求められている今の時代にそぐわない。むしろできない人がいるのであれば、社会の側はその個人を受容し、持っている個性の生かし方をともに考えるべきではなかろうか。

理想を語っている自覚はある。でも、理想を掲げなければ現実は変わらない。障害を減らすというのは、個人だけでなく社会の側の受容でかなり減るもの。これからの取り組みは、こちらにも力を注ぐべきだろう。

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