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人は同質に安心することを前提にすべき

今日、たまたま取った電話がちょっと面倒な内容を含んでいました。来週早々、速やかな対応が必要だと考えながら帰宅の途につきました。宿題を頂いた気分です。

さて、……。

これまで人口問題をベースに、以下の2つの記事を書いてきた。

今回はその続きとなる。人口減による労働力不足への対処として、移民の受入れを主張する人がいる。ここで移民の受入れは、移民の背景にある文化や宗教の受容と、彼らの自立に必要な教育や物資等の支援までがセットになると認識。

この実践にはかなりのリスクと負担を伴う。忖度と以心伝心を当たり前とする一方、経済的にかなり斜陽の日本でそれができるだろうか。

文化については、日本人は積極的によいものを取り入れて日本風にアレンジして我がものとしてきたから大丈夫だろう。しかし、宗教については同様に思えない。

日本は無宗教だとよく言われる。それはその通りで、神社に初詣に行き、バレンタインで愛の告白をし、法要はお寺に頼み、クリスマスケーキをほおばる。こういう「何でもあり」は、特定の宗教に属していたらあり得ない。そしてこのような信仰態度は、世界では極めて奇異に受け止められる。

ただ、移民を受け入れる側の日本がそうであれば、移民してくる人達もひとまずは安心できる。自分の信仰の自由が侵害されないからだ。

しかし、その人達に「郷に入っては郷に従え」とばかりに他宗教への寛容を求めたらどうなるか。恐らく彼らはそれを受け入れられないだろう。信仰において、他の宗教を認めることは本来論理矛盾だからだ。

ここで、彼らが移民になった理由を考えねばならない。他国への移民を決意する理由の中に、多数派を占める他宗教からの抑圧や改宗の強要があり、そこから逃れたいというのもあるはず。即ち、戦争や生活の困窮だけではない可能性が大きい。

これは無宗教な私たちが意識できない点。そしてそういう彼らであれば、自らの信仰を維持する一方で他宗教に寛容にはなれないのはむしろ当然となる。

人は、そもそも自分と異なるものに対して警戒心を抱く。そして、異なるものを排除に動く。その一方で排除された側は新天地を目指す。日本は彼らから見て同じ宗教ではない。でも、信仰を理由に排除されない点でアドバンテージがある。

もっとも、融和できているように見える日本国内でも、現実には差別やイジメはある。加えて、偏見に基づく差別もある。それでも、陰湿だけど苛烈ではないだけマシなのかも知れない。

自由の国アメリカと言えども、多民族化が「人種のるつぼ」とはなっていない。むしろ「人種のモザイク」になって、モザイクを構成する模様同士で争いが生まれ対立を深刻化させている。移民を受け入れた世界各国でも同様の事態が起きている。

なお、この状況を使ってWASPの恐怖心を煽り、巧みに自らの支持に繋げる某大統領候補がいることは、ご高承の通り。

モザイク化の例外は、国家が自由な居住を認めないほど監視の目を光らせるシンガポール程度。かの国は「団地内で各人種の比率が均等化を図る」「民族別の集会には施設を貸さない」といった細部にわたる決めごとまで政府が定めているとか。

このようなかなりややこしい問題を抱える移民の受入れを日本で主張する方々は、大らかなのか無邪気なのか。少なくともそういう移民受入れに伴うネガティブかつ強い影響が想定される面に対し危機感が薄いように感じる。

受入れを主張するならば、世界のあちこちで起こっている対立をどのように解決するのかまで提示すべきだろう。

個人の感覚以上のものではないが、やはり簡単に解決することは難しい。恐らく今世紀中に解決策が出てくるとは思えない……残念だけど。

お読み頂き、ありがとうございました。

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